長谷川毅『ロシア革命下ペトログラードの市民生活』

本書は,2月革命後の臨時政府成立の翌日1917年3月5日(ユリウス暦.以下同様)から,翌1918年4月3日までの大衆紙的な「低俗新聞」各紙の犯罪問題を主にピックアップしてまとめたもので,著者自身により「はじめに」と「終章」が設けられている.また第1章から第4章(10月革命直前)まではほぼ毎日,第5章の10月革命後は数日に一つの記事が掲載されている.

「低俗新聞」記事の列挙は,当時のペトログラード市民の約半数を占める工場労働者以外の「労働運動の外におかれた未組織の労働者」や,それ以下のさまざまな階層の「下層階級」に焦点を当てることを意図する.すなわち,「一般民衆」の姿を社会史的に描こうという試みである.

一見して無秩序に並んでいるような記事も,全体を通して読むと,ある一定の傾向が明らかとなってくる.犯罪の総数,その質(暴力をどれだけ伴うか,「殺し」なのか「盗み」なのか,権力の名を借りた強制捜索という形を取るのか,あからさまな強盗なのか),犯罪の主体といった視点,また逆にそれを取り締まる警察組織の姿は,どのようなものだったのか,そして「一般民衆」の犯罪に対する視線や,警察組織に対する視線はどのようなものだったのか.以上のようなことが時系列にそって,動態的に活写される.もちろん新聞それ自体を読むわけではないので,情報の操作は注意しておくべきことである.

脱走兵による犯罪の多発と武器の流通,軍服をまとった犯罪者の数は革命後の軍事政策の失敗を物語り,民警の無力は,民衆のサモスードを呼び,やがては信頼を失い臨時政府=権力への不信感へとつながって行く.民警に対する攻撃やいやがらせが10月革命前には相当数に達している.

さて.では,著者は社会史的に犯罪と「一般民衆」を描き出して,どのようなロシア革命像を描き出そうとしたか.これは実におかしいことだが,終章,特に最後P.327の一段落が全てを表現している.長いが引用する.

ロシア革命の背景には,このようにすさまじい社会秩序の崩壊があったことを理解しなければならない.ロシア革命の結果として樹立されたボリシェヴィキ政権は,暴力を剥き出しにするリヴァイアサン国家でしかありえなかったのである.

長谷川は,終章はじめのP.312で「二月革命前のペトログラードは犯罪率の低さを誇る平和な都市であった」と述べる.先の引用と比べてどうだろうか.革命の進行が,都市ペトログラードの秩序を奪い,公的暴力機関の崩壊を招き,ユートピア的な発想の臨時政府の治安政策のもとで,逆に犯罪のはびこる都市の「一般民衆」は鬱屈する「パッション」を階級的憎悪に移し替えた.これを制度化し,利用し,権力を奪い取ったもの,それこそがボリシェヴィキであった.革命下,矛盾が吹き出し,狂騒のエネルギーが渦巻くペトログラードで,レーニンは「主体的行動」によって社会の発展段階を進めうると考え,ボリシェヴィキはそのエネルギーを利用し権力を一気に奪った.民主主義は挫折し,奇形のリヴァイアサンを生み出した,長谷川はそう主張する.

この点は,少々論理の飛躍のように感じる.新聞記事とその分析を通じて,民衆の意識の変化や,民警制度の動き,犯罪の質の変化などに関して,それぞれもっと説明が欲しいし,記事のピックアップの仕方についても充分な説明がない.いささか強引にリヴァイアサン論へとつなげてしまっている.長谷川の方法は,新鮮であるが,その一方でかなり危険だ.その意味で注意深さが欲しい.「一般民衆」の生活が実は見えてこない.資料の不足が実に弱点となっているのは明らかだ.

犯罪者とその予備軍の増加,住宅そのものとその需給バランスの崩壊,物不足は革命がもたらした経済状態が,ペトログラードの人口に見合っていないことを示す.にもかかわらず,ペトログラードとその外部の人口移動に関しては,ほとんど述べている点はないし,数字も記事中のものがあるだけである.

長谷川の新聞に関する眼差しと,新たに公開されつつある資料をつきあわせ,さらにペトログラードの市民生活の動態が明らかになるときに,ようやくより歴史に近い言説を,つかむことができるのではないだろうか.ロシア革命史にはまだまだ下積みの地道な研究が必要である,と感じた.

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