3日は福沢諭吉の命日である。これを雪池忌という。
さえないことに私はパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番を聞いて、幸せに寝入ったのが午前8時であった。雪があると風情の出てくる日なのだが、残念ながら晴天でしかもわりかし暖かい。節分であるから、暖かさがあってよいという意見もあるとは思うが。
ところで、私はイベント系の人間である。祭りが大好きだ。ところがここのところ盛り上がってきたヴァレンタインは少々いただけない。昔からある祭りが好きだから、というほど割り切っているわけでもなさそうだ。どうにもこの2月14日がくせものなのだ。暦上はあまりにも平凡な日だ。聖人なんてものは掃いて捨てるほどいるわけで、マーケティングの成功だなんだという議論もくだらない。私が気になるのは日常の中のイベント化することで、非日常の日常化がおこっているのではないか?ということだ。男女の出会いの空間は、初期的には非日常である。ところが逆論すると会ってさえいれば非日常なのである。それがバレンタイン・デートいうことで非日常が凝縮され、普段の非日常が逆に日常と規定されてしまうのではないか。
誕生日のような記念日は多様性を持つ。ところが画一的に出会いをある一日に押し込めてしまうことは、その一日以外の前後の日々を希薄にするような気がしてならない。案外暇な人は少ないのだ。なんら主体性のない「ある一日」で会うこと。この意味を過剰に評価すると、相互の人間性を棄却することに繋がり、平凡さに繋がる。
日経、朝日、NHK、etc…の資料が到着。いよいよエントリーシート書きの時期が近くなってきた。本当に大学院と二股かけているんだと実感をしつつある。なにしろ他人に、「迷う程度なら就職しろ」といってる人間がやることか? うーん。不覚悟だ。と、思いつつも徐々にセミナーが私のスケジュール帳を埋めだした。二月中に一度スキーに行き、一度旅行に行こうと思っていたのだが、実現はなるだろうか? 論文〆切は明日。私の任期最後の編集も今日、明日。ネットワーク社会論をイスラムに適用してみるという試みと紙面のレイアウトや受験生の反応が頭の中でぐるぐると絡まりあっている。
初めてお邪魔致します。「雪池忌」という言葉に引かれてやって参りました。私は塾員でないし、縁もゆかりもない部外者だと思ってきました。しかし、三代前までの先祖が麻布十番に住んでいて、かつ一人塾生だったと聞いて興味を持ち、古地図を買ってみたのです。先祖の家の番地が書いてあったのには感動しました。義塾も滅法近所だなと(笑)朝に散歩される福澤諭吉さんのことは評判だったことでしょう。それで勝手に興味を持ってお参りさせていただくことにした次第です。
貴ブログの方はこれからゆっくり拝見します。
部外者なのにこの様なコメントをさせていただき有難うございました。
木下さま.初めまして.コメントありがとうございます.
麻布十番のあたりは南北線ができてから随分と便利になりました.私も昔は時々,綱町から二の橋に抜けて,延々あるいて広尾の都立図書館までいったりもしましたので,多少は庭のような感覚が残っています.
昨年は慶應義塾150周年にあたっておりまして,ちょうど今,「未来を開く福澤諭吉展」が東京国立博で開催中ですね.もしかしたら木下さまもいらっしゃったかもしれません.
さて,この記事.自分の書いた文章ですが,いまみると恥ずかしい限りです.また最近の記事は私の周りにいる人でないと,ほとんど意味不明な記号的な言葉が並んでいるばかりで,お目よこしになるばかりかと思います.先にお詫び申し上げておきます.