坂上康俊『律令国家の転換と「日本」』

本書は9世紀という時代の平安初期を描く。著者自身が述べるように9世紀という時代は奈良朝と摂関時代の間にあって漠然としたイメージしか与えられていない時代である。この時期の主要な論点は、律令制の崩壊と日本の古典的国制の形成期とどちらに重点をおくか、ということである(「はじめに」)。本書はその双方を概略しつつ、国際情勢の変化という要因を強調する。

日本の律令国家は、全国に国司のもとに軍団を設置するというきわめて均質的な軍国体制である。これは中央権力の維持が主目的というより、外敵に備えるのが目的である。なぜなら各国に独自の軍団を割拠させることは中央権力にとって統制可能な範囲が縮小するということであり、望ましくないからである。にもかかわらずそれをしたのはやはり、新羅・唐に対する防備と考えて差し支えない。そもそも律令国家は天智朝下の唐への恐怖から建設が大々的な始まった。しかし国際状況の緊張は天平宝字年間の対新羅関係を頂点として、唐の勢威の衰退を伴いつつ、一気に緩和に向かう。その中で軍国体制は緩み、また唐朝の巨大な存在感に支えられた東アジア国際体制に、すさまじいリスクを冒してまで参画する(遣唐使の派遣)意義は失われていった。当然に「(唐に)朝貢しながら朝貢を受ける(新羅)」という小帝国体制を無理やり維持する(=軍国体制による威力誇示)必要もなくなる。ここに帝国は再編され、辺域の蝦夷や隼人を外蕃のままにしておく必要もなくなり、調民(日本の内部的一般臣民)化が進み、官のレヴェルでは「日本」は半ば閉じられた帝国となってゆくのである(第三章「帝国の再編」)。

もちろん本書の真骨頂は、そうして日本の独自性が向上し完成しつつあった律令国家の姿を描くことにある。特に格による国の守の権限上昇をさして、格が律令そのものの適用範囲を狭めたものと評価しているのは重要である。本所法、武家法、公家法の並立という中世法の前提がここにある。徴税論理に関しても、律令体制から「神火事件」「里倉」などが展開され、やがて官物という地税と臨時雑役に転換されてゆくという複雑怪奇な道をたどるわけであるが、これを軍国の維持が不要となり、人々の把握も厳密さを欠いたままでもよいとなる。その上で税とからめて次のように著者は言う。

確かに戸籍もないのだから、効率は良くないかもしれない。その意味では、税の徴収は粗放的であるとすらいえる。けれども土地は逃げないのだ。手間をかけなくとも、目の前で生業に勤しんでいる連中を捕まえて、何とか取り立てていけば、当面はどうにかやっていけるのではないか、と国家が思い始めた。そして事実やっていけたのである。

なんと明快でわかりやすい説明だろうか。

ほかに「入唐求法巡礼行記」をはじめ、これまで軽く扱われがちであった円仁の事跡をきわめて詳細に紹介していることは概説書として高く評価できる。また概ね古代における集落は10世紀前後に一度廃棄されるが、このことに関しても徴税論理の転換とあわせて地方権力の形成という点まで論理が展開され、わかりやすい。

「おわりに」の一文もまとめにふさわしい。

「経験を踏まえて原理を追及し、その原理から今度は演繹的に理想的な国制や社会の規範を公然と語るという姿勢ではなく、試行錯誤を重ねながら、その時々の眼前の課題を片づけていくという姿勢、青写真を用意してそれに合わせるように現実を変えていこうというやり方と訣別した対処のあり方で良しとする姿勢が明確に打ち出されたのが九世紀という時代であり、これはその後の日本国家の政治の体質になって言ったといえよう」。

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