アメリカ国務省は、例の同時多発テロの首謀者をビン・ラーディンとする発表を行った。ラーディンがアフガニスタンのターリバーン政権に匿われているのは周知の事実である。ラーディンについてはよく知られている。サウジアラビアの大手ゼネコン財閥の息子で、ムジャッヒディーンとしてソ連のアフガン侵攻に対して戦った人物である。今回は、ターリバーンとアフガニスタンについて復習をしておこう。
ことはアフガニスタンの建国まで遡る。そもそもアフガニスタンという地域は、山がちで強力な中央政府があったためしはない。むしろアフガニスタン域外までも支配する強力な帝国の一部として機能していた。たとえばティムール朝は後半にヘラートに政権を作ったこともある。しかしそれはアフガニスタンの強勢のゆえではなく、アフガニスタン西半は古来イラン世界=東方イスラーム世界の主要な部分を形成していたためである。
時代は下って19世紀。東方イスラーム世界は、大英帝国とロシアの草刈場であった。イラン、アフガニスタンの沿海部はインド帝国防衛のために大英帝国にはなくてはならない地域であり、ロシアは伝統的南下政策により、中央アジアを併呑した後はじわじわとイラン、アフガニスタンに迫ってきていた。
必然的にロシアと大英帝国の勢力はヒンズークシ山脈付近で激突する。両国ともこのアフガニスタンの地を制圧しようとしたが、師団単位であえなく敗退する。とりたてて資源もないこの地をそこまでして押さえなくてもお互いの進出を防止すればよろしい、ということで出来上がったのがアフガニスタン王国である。つまり山岳地帯で谷ごとに部族が勢力を争っていたようなところに、緩衝国家として張りぼての中央政府を成立させたということである。これはアフガニスタンの地図をみれば一目瞭然である。北東部に中国に向かって細く突き出た回廊がある。こここそが、インドとロシアを直接に接しないように強引に設定された国境なのである。この地に関するエピソードが『燃え上がる海』に載っている。それによると、この回廊をアフガニスタンの王は欲しがらなかった。しかし英国としてはなんとしてでももらってもらわなければならない。そこで金まで払ってもらってもらったということだ。珍しい話である。
つまりこのように勢力の狭間にありながら、なんにもないところなので必然的に植民地政府もなりたたず古い体制のままほったらかされた場所なのである。そんな場所は地政学的にはかえって隙間として大国にとって気になる場所となり、ソ連もほうっておくことができなくなったのである。
当然ソ連が侵攻してくればアメリカはこれを阻止せねばならない。このときアメリカが目をつけたのがムジャッヒディーンである。もともと武勇の誉れ高い住民に武器をばら撒いてゲリラに立ち上がらせ、さらに湾岸などで社会不安のもととなっていた若年失業者をイスラームの大義のもとに駆り出して、ソ連に対抗させたのである。
で、ソ連が撤退しても武器はそのままだから、もともといない「アフガニスタン人」などという幻想は崩壊し、昔ながらの部族同士の血みどろの争いがはじまったわけである。そこに綺羅星のごとくパキスタン方面から現れたパシュトゥーン族主体の勢力がターリバーンである。アフガニスタンが国際政治の異形の産物であったとするなら、ターリバーンはそのアフガニスタンで引き起こされた内戦の異形の産物であった。おそらくもっとも厳格なイスラームであるサウジアラビアのワッハーブ派に近いと思われるが(しばしばサウジアラビアが親米であることから誤解されるが、イスラーム世界でもっとも厳格なイスラームを奉じる国はイランでもなくスーダンでもなくサウジアラビアである)、どこからともなく湧き出てきた、という印象がある。それは内戦の生む難民のなかに、次なる政権のヒントが秘められていたことを示しているだろう。
今のターリバーン政権は、イスラーム復興というより伝統墨守とみるべきであろう。その意味では原理主義ではない。伝統を守ろうとするものにとってこそ、アメリカは最大の敵たるのである。
ところでマスードが死んだとか死なないとか。