あまりにひどいのでコメント。単純な日本文化特殊論。比較はせいぜい英独仏のみ。以下、要旨。
日本人は農耕民族で定住していたから「質の文化」を発展させた。日本人以外はさすらいの民だから「量の文化」。「量の文化」の諸語と違って、日本語は情緒を重んじて理屈っぽくない。むかしから訴訟がほとんどなかったのがその証拠である。暗黙の了解が働く美しい日本語がなくなってしまった。ああ。
と、まぁ。国粋右翼が喜びそうな本である。教育勅語を美しい日本語の典型として出したりしている。擬古文にはそれなりの典拠のある漢文であることは完璧に捨象されている。文字自体はあまり問題ではないそうだ。日本人が定住し云々というなら、定住していた近世の百姓の文章を読むがいい。あふれるほどの訴訟文書と触を見つけることができるだろう。これでも訴訟が少ないと言えるだろうか。そして著者が美しさの源流と考える万葉を歌った人びとは、古代律令国家の成長にあわせて全国を動き回った人びとなのである。このあたりでかなりの矛盾が生じてくる。が、これ以上考えるのはやめる。
なぜか。それは単純で、著者の育った昭和初期の日本語が古来不変の日本語だという思いこみが本書を支配しているからである。その証拠はいくらでも見つかる。伝統を論ずるものが、みずからの記憶する「昔」のみで論ずるとしたら、それはただのノスタルジーである。それがノスタルジーのままならよいが「ノスタルジー」にすぎないものを往古不変の伝統であるかのように語られると虫酸が走る。伝統には、それが形作られてきた過程、すなわち歴史があるのである。そのことを無視した昭和初期への復古論が本書なのである。であるから、「失われた私の「日本語」」について語った書物なのである。このような書物を出版した草思社に失望した。