早慶戦を終えて、友を考える

去る30日が私の誕生日であった。ついに切り上げ三十路である(爆)。スカイメイトの有効期限まであと1年。猛烈に悔しい。

さておき早慶戦前後は妙に浮き立つもので、3日続けて入れ替わり立ち替わり我が家に人が来た。私はどうもなかなか眠くならない気があり、寝る前にむやみやたらと喋りたがる。もともとが人がいると楽しくて仕方がない寂しがり屋であるということもあるのだが。

世の中自分と全く同じ考え方をする人はなかなかいるものではない。私はわりと切り替えがきかない方で、酒の席でもしごくまっとうな受け答えをしてしまう。つまらない人間である。ふっとそれを気に病んだりすることが多い。この人たちはどうして楽しいんだろう?と考え出したらおしまい。相当にまずい。どうすれば世の中とうまくつきあっていけるのだろうか?

そして、また。友人と恋人の違いはどこにあるのか?

これはまともに考えれば近しさと性格の一致性に関する曲線の数ある交点のうち、ある時間においてもっとも高い場所にある、ということがわかる。したがって、全く別種の物であるとは言い切れないだろう。程度の違いである。もっとも恋人である人々が、むしろその関係を特殊であると信じ、先に述べた交点をより押し上げてゆくことは正しいことであり、他人がとやかく言うべき筋合いのものでもないだろう(笑)

むしろ。擬似的に妹のように、あるいは弟のように、姉のように、兄のように思う方が、友人とはより別種の観念であるように感じる。この点、知識が少なすぎるので、非常に嘘臭いが。

その家でのどんちゃん騒ぎの際に話していたことなのだが、血液型、というのがいまもって強い信仰力を持っている。性格であるとか、相性であるとか。私は、これが嫌いである。なぜなら人間性や性格の大部分を先天的決定にゆだねてしまう、しかもその類型パターンが極めて少ないからである。先天的決定の類型化を「人」そのものに当てはめると、遺伝的「選別」の発想が生まれる。その危険が怖い。

そもそも血液型ブームの仕掛け人は戦争前後に活躍した古畑種基である。彼は一方で優生学的発想を持っていた人である。優等民族たる日本人が劣等民族たる朝鮮人と同化するなどとんでもない、という思想をもち、七三一部隊の石井中将の師と学を同じくした人でもある。

現今の社会は優生学的発想を許さないようにも見えるが、世の中少し転べばどう動くかはわからない。なるべく環境とその影響が人を形成し、思想を形成してゆくと考えたい。

よく「それは考えるというものではない」という発言がされるが、感覚や感情、直感にも必ず背景がある。史家はそれをみつめねばならない。

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