6日の日経のX-NikkeiのWhat’s Newで東京国際大学の調査に基づいた面白い記事が出ていた。学生とその両親を対象に「友人」「親友」の数やどのようなつきあい方をしていたかの調査とのことである。ここで驚くのは、それぞれの世代で「友人」「親友」の量もつきあい方の質も明らかな差異を示していることである。友人の数では圧倒的に現在の学生の方が大きいが、親友では少なくなるということ。そして質の面でも父母の世代では全人格的に行動するとき一緒であったり、議論を戦わせたりする親友像があるのに対し、現在の学生は「共にいて疲れない」居心地の良さを親友のもっとも大きな特徴として挙げるという違いがある。
居心地の良さ、とはまさに家族の特質であったはずである。それが親友のもっとも重要な条件とされている。このことは、家族像の変遷が、友人像の変化にかかわってきていることを示しているのではないだろうか。親の世代と我々の世代の差異。それは、経済状態の違いに加え、情報端末・媒体の発展・多様化も挙げられる。歴史上、稀に見るスピードで、「人と人の関わり合い」が変化しているのであろう。それは「家族」にもまた、見られるものなのだ。
家族像が変容している。ところが一方で、日本という国家には伝統的に家族国家の感がある。日本の家族とは血以上に家を大切とする「氏」の家族であり、「姓」を何よりも重んじる韓国や中国とは違った特質をもつ。血という確固たる結合によって家が形成されるわけではない以上、家族像の変容は、日本のさまざまな局面に投影されている「家族」的なるものに影響を与える。たとえば日本の会社もまた「家族会社」の面があると考えられる。小熊氏の指摘するように新入社員とは会社に嫁ぐ「嫁」であり、就職活動とは嫁入りの「大事」なのであるかもしれない。家族が変容しているとはいえ、まだまだ「家」としての会社の意識は我々の深層に生き残っている。
大衆化した大学は20歳前後のある一時期を過ごすだけの場所ということがわかりきってしまった。そのような場所に「家」は感じにくいのだろう。その中で、旧来のアカデミズム的「ゼミナール」像は徐々に壊れていくのかもしれない。しかしこれに対されるのが全く学問に興味を持たない学生の巣では大学はたちゆかず、日本の社会もたちゆかないであろう。それ以上に、学問の生命力が失われて往くであろう。
だが、すでに会社が「家」ではないことも徐々に明らかになり始めた。構造が変わる日は、近い。