講談社現代新書、岩波新書、ちくま新書、講談社ブルーバックスの毎月の新刊をだいたい読んでいる。時に手当たり次第にトピックを求めて、年代や主題にかかわりなく、さまざまな新書を読みあさる。新書は「知」の入口、と私は考えているためだ。一般には、新書はビジネスマン相手と普通は捉えられているようだが、実は内容はかなり良質である(すくなくとも上に挙げたものは)。
普通、自分の専門は専門雑誌やほとんどの単行本に目を通す。しかし専門としない領域については、手が回らず何も知らないという状況に陥りやすい。そのような状況に陥らないために新書は有効だ。それぞれの学の行き着いた場所のオーソドックスなところを概説してくれるためである。
新書でもまじめなものなら、参考文献を示してくれる。一回参考文献にあがったからといって、その本が重要であるかどうかはわからない。しかし、新書は同じ分野で徐々に蓄積されてくる。その蓄積のなかで、共通して言及されている書物は概ね必読であることがわかるのだ。新書の乱読は読むべき本をみつけるためにも有効だ。
さて。もう一つ面白いことがある。たとえば。「まちづくりの実践」「侵略戦争」「スポーツとはなにか」この3冊。まったく関わりがなさそうであろう。ところが、いずれも日本に実体としての「地域」が欠けていることを認識できる。その認識のもと、まちづくりによって「地域」を創造すれば、商業スポーツではなく、地域に根ざした純粋な楽しみとしてのスポーツを形成できることがわかる。一方で、地域の欠如が、単純な皇国観を安易に受容できる素地を形作ったことを知ることができる。
「まちづくりの実践」「日本人はなぜ英語ができないのか?」「韓国は一個の<哲学>である」。この3冊、また関係なさそうだ。ところがこの3冊に共通して挙げられてい人物がある。井筒俊彦というイスラーム神秘主義を専門とした学者だ。3冊共通で挙げられたということは、この人の哲学が言語論、地域文化研究に重要な示唆を与えてくれることを知ることが出来る。
こういうことは突発的に出てくると驚くが、やがてこうした言論の網の目を自家薬籠中のものとすることが出来るだろう。新書はあくまで浅く広く読むことで、自分の頭の中に「知」のリングを形作り、言葉をより豊にさせてくれる。私は新書の乱読をお勧めしたい。