著者はスポーツを文化として捉える。ところが日本では文化としてのスポーツが成長していないのだ,という.
たとえばオリンピックでの「アマチュアリズム」とは労働者を排除する差別的な発想に根ざしているわけだが,日本でこの「アマチュアリズム」が高い評価を得るのは,スポーツを「体育」として捉える日本的文化と合致するためであり,逆に言えば,スポーツをスポーツとして「楽しみ遊ぶ」感覚が不在であるためとするのだ.
なぜか.近代日本では地域社会が育たなかったため、運動会という例外的に発達したレクリエーションとしてのスポーツをのぞいて、地域で楽しむスポーツが発達しなかった.そして「体育」としての面ばかりが戦前に強調され、逆に戦後ではこれを否定され,その結果,現在ある単なる企業文化としてのスポーツが生まれてしまったのだと著者は説く。
企業スポーツはその利益と連動しており、甲子園などいびつで不可解なスポーツジャーナリズムとの複合体を生みだし、勝ちと負けだけを気にする不可解な観客を作りだし、「楽しむ」観点のスポーツが不在になっているという。
またスポーツナショナリズムに関しても「スポーツの観客は、自分に近しいスポーツマンの活躍を願うのが自然な感情である。親類、縁者、同郷、同窓、同じ国、同じ民族、同じ宗教……。しかし、国や民族を越えて素晴らしいスポーツマンを讃えるのもまた、観客の自然な感情であることを忘れてはならない」として、人間をより善良なものとして捉え、スポーツナショナリズムに関してもむしろ「90分間のナショナリズム」としてこれを吹き出させてしまう方がよいとする。むしろ日本人があまりに「勝った、負けた」で評価する傾向が強いので日本でそれに応じてスポーツナショナリズム批判も強いのではないだろうか。
プロをプロとして正当に評価すること、ジャーナリズムはその本質を守り、企業として利益を追求する姿勢をスポーツにまで持ち込むのは誤っているという指摘はおそらく正しい。本書は、地域社会の問題や、ジャーナリズム、国家などあらゆるネットワークを「スポーツ」の観点から再構成した書と言える。スポーツに興味のない人は、あるいはむしろ読んでおくべき書物であるかも知れない。スポーツとはなにか?この問いかけなくして、「嫌い」は許されない。