パターンはいつもと同じ。ただ14時頃からなぜか持っていた宮本常一『忘れられた日本人』を読み始めてしまう。間違いなく英語をよむことに倦んでいたのだと思う。というわけで1冊読破。昭和20年代の日本にはまだまだ「近世」までの綿々とつながる「日本」が各地に残っていたのだということを実感した。しかし。人の勉強の邪魔をしたという点で、宮本は罪である。
「土佐源氏」をはじめとして本書に登場する人々はもちろん現在想定されるような「国民」ではない。彼らに想像できる空間の広がりは、自らが歩いていける範囲に過ぎない。すなわち大都市とは宇和島であり、松山はその一級上、東京とは雲の上の街である。これこそは帝国的空間観であり、人々は国民である以前に、ある地域民であり、それ以上の感覚では人にすぎない。
帝国には、境界線がない。いつしか辺境へと移り、ふしぎな混交した空間を通り過ぎ、やがてもう一つの帝国の辺境へと移り、さらなる帝国へと足を踏み入れる。帝国とは、属人的支配である。それゆえに土地に対する縛りがない。同時に、人に対する縛りもきわめて限定的であり、全ての人々に均一に支配が及ばないということにならざるを得ない。ここに帝国の超近代性があり、逆に限界も存する。
帝国主義とは、「主義」という名前を付けねば理解できぬ通り、帝国の採る政策ではなく、国民国家の採る政策である。果たして、帝国は復活するのか? 雲南の物言わぬ民は、大部分昆明までさえ出たことがないと言う。はたして彼らの脳裏に、郷党委員会以上のレヴェルで想起される政治的勢力はあるのだろうか? 県、省、中央。そのすさまじいまでのピラミッドは明らかに帝国であり、そして中国人民の考え方は、きわめて帝国人民的である。北京、上海、広州はある頂点なのである。中国はいまだ帝国であることを忘れてはならない。帝国は直接に民主化できない。
図書館には、人の出会いがある。建物の持つ凝集力はいったいなんなのだろう。この建物に、なぜこれほどの人が集まるのだろうか。書物の形作るネットワークと人が形作るネットワークの水紋が交わるところだった。