宮崎駿の最新作「千と千尋の神隠し」を見てきた。7月20日公開からすでに2週間近くたっている。日比谷ミラノ座の最終回で観た。混雑はそれほどでもなかった。読後感(映画ではなんというのか?)のようなものは、まだ判然としない。といっても前作「もののけ姫」のような後味の悪さではないのだが、まだ何か積み残したような感じが残っている。
とりあえず見ていて思ったことをいくつか。
- まず引越のシーンである。これは「となりのトトロ」とよく似ている。郊外、それもかなり離れた郊外への引越しではないだろうか。里山に住宅地が切り開かれている。「郊外」「丘・里山」「異世界への入口」。これは一つの基調をなしている。つまりもっとも異世界とは縁遠そうな「郊外」であろうと、どこにでも異世界への扉は開きうることを示す。
- 両親が豚になってしまうのはかなりインパクトがあって強烈である。作画のレヴェルが高いだけになおさら。
- ストーリーを推し進める原動力に欠ける気がしないでもない。冒険が主題ではないからしかたがないとは思うが、両親を人間に戻し共に普段の世界へ帰ること、がストーリー全体のミッションとはなるが、すべてを説明するには弱く、かつテーマとの関連が不明確であるので、ミッション達成-エンディングというような爽快さはない。
- とはいえ、千尋の成長するさまは、表情としぐさによくあらわれていて、こちらは見ていて爽快。終わるときは非常にかわいくなっている。というよりそのような物語としてみるべきなのかもしれない。
- ハクは宮崎映画ではなかなか出てこないほとんど完璧な少年。ヒロインが普通になった分そのようになったのか。似ているのは「ナウシカ」のセルムくらいではないだろうか。そこに意外さがある。ただしエンディング近くの展開は少々こじつけがましい気もする。
- 登場人物の衣服、街の背景、風景に注視。実に面白い。東アジアの歴史と高度成長前期日本的「近代」が奇妙に織り交じった感じで不思議。「もののけ」で示されたような日本の「東と西」「人間の力と自然の力」「運命」といったものはそれほど強調されていない。やはり「異世界」であろう。それも「反現実」としての異世界ではなく、それ自身でなりたってゆく一つの生きた異世界である。だから「神隠し」であり「遊び(遊学)」であるのだ。
- ただこのような「異世界」が人間を受け入れない世界として示された点も重要かもしれない。結局神々はわれわれを見捨てるのか? 阿部謹也が「世間論」で展開する奇妙な悲壮感と共通するものがある。
- 「名前」の重要性が再び。アイデンティティの拠り所。「名前を与える」という行為がここにもあった。
といったところ。結論。「ラピュタ」のような簡潔な感動も「もののけ」のような問題観の肥大化もない。ゆえに中途半端と見ることもできる。しかしながら落ち着いた心で暖かく見れば安らぐような心地よさが与えられるかもしれない、とも思う。一概に子供向けとも大人向けともつかない。不思議な感じである。あるいは性格を選ぶのか? さきほど「判然としない」といったのはそういう感じがあったためで、実はもう一度見てみたいのである。
ちなみに私が一番好きな宮崎映画は意外なところかもしれないが「耳をすませば」である。
- 8月に入って妙に涼しいので、気持ちが悪い。暑いと暑いでいやなのだが、この時期に30度もいかずどんより曇っているというのは、気分が中途半端でよろしくない。夏「らしさ」を好むのはレッテル付けの証拠だろうか?
- 今度はシネマメディアージュで迫力系のものが見たい。
- 朝日新聞によるとj-phoneのJ-skyでi-modeのサイトを見ることができるようになるという。これでj-phoneユーザーまで対象を拡大してi-mode用のサイトを作ることができる。秋には絵文字なども使えるようになるらしいが、これは一長一短。実に単純な話だが、とっととXHTML Basicを標準サポートすればよいのだ。そうすればCSSも使えるし、キャリアごとにサイトの構築方法を変えるといったあほなことをしないですむ。
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