書物が電子化されていくのは基本的によい傾向であると思う。特に論文などがHTMLでWEB上に公開されれば、cite属性の駆使によって引用元の論文を参照しながら閲読することができるようになって非常に便利であろう。次の2点を要望したい。
第一に雑誌論文のWEBへの掲載(基本的に著者自身のサイトで行うのが望ましい)。引用元をちょっと見てみようと思っても、身の回りにないことはやたらと多い。場合によっては、どこが所蔵しているかを調べ、アメリカの議会図書館(Library Congress)にまで、コピーを依頼することになる。LCならばかなりのスピードでコピーが届くが、大英図書館などは遅いし、コピーの質もよろしくない。だいたいすぐにその場で参照できるわけではないのだ。そもそも、これも学生なればできることであって、一般の人にはとても無理。だいたい論文自体が掲載された学術誌自体がその辺の図書館には置いていないのだから。もともと学術雑誌に関しては発行自体はほとんど儲けになっていないはずであるから、掲載される論文などの成果は一般に広く公開、印刷物を希望する人は学会費を払う、というのが妥当ではないだろうか。もともと論文は論理性を広く兼ね備えているので、HTML化は容易であると思う。
第二に一般向けの概説書などでは、その本にかかわる正誤表の掲載および新たな動きの情報を提供することが求められる。これは根本的に著者の責任を貫徹することである。従来の出版物のみの体制では、出版後は読者が間接的にさまざまな書物などを参照することによってしか、新たな情報を得ることができなかったし、改訂版を出版するということもよほど改訂すべき情報がたまらないと難しかった。これを逐次的に行うことができ、書物とWEBが連関をもって有益な情報を提供することができる。検索性という点から見れば、一般の書物も電子化され公開されることが望ましい。常時必要な書物や通読したい書物の場合は「本」という媒体での提供を読者はおそらく求めるだろう。書店もそれほど恐々とする必要もないと思うが、難しければまずある書物の索引・正誤表・トピックの最新情報の提供から手をつけてほしい。もちろんメンテナンスの点から考えても著者自身のサイトで行われるのが望ましいと思う。
神崎正英氏はすでにご自身のサイトThe Web Kanzakiで著書『ユニバーサルHTML/XHTML』について上記のような試みを行っている。最新の規格を扱うこのような書物と人文系の書物では性格が違うという議論もありえるし、また訂正の手段が用意されることではじめのテクストがいい加減になるという議論もありえる。しかし、はじめから100%完成されたテクストというのはないわけで、むしろ意図しない過誤を訂正できない状況のほうが、良心的な著者にとっては痛恨を感じることとなるだろう。
HTMLを書くということはもとのテキストさえしっかりしていれば、ほとんど面倒なことはない。デザインは気が向いたときにスタイルシートで補完すればよいのだから、なんらかの文書を出版・公開する人はWEBサイトを開設してほしいと思う。
- イラン映画が隆盛のようで結構なことである。ずいぶん前に日経に記事があって言及したが、また今日記事になっていた。アッバース・キアロスターミーの三部作や「運動靴と赤い金魚」などはすでに日本の映画ファンにもおなじみであろう。日経に指摘されるとおりイスラーム革命体制化での検閲が一種の芸術を生み出したということも否定できないが、それを革命体制の皮肉とだけ見ることはいささか了見が狭すぎる。映画はすべて政策の反映であるとはとてもいえない。あのような映画を作れる、というイランという国やイラン人自身の鑑賞眼と美意識の成熟をこそ見るべきであろう。たとえ革命体制がなくても、イラン自身の成長はあったわけであり、以前も書いたが、パフラヴィー朝の時代とイスラーム共和国を王朝断代史的にだけ考えるのはいかがなものかと思う。同じ弊害は、20年前に近代中国研究で指摘されたことでもある。清/民国/人民共和国の連続面から目をはなしていた隙に改革開放が始まってしまって、怪奇現象のように見えてしまったのである。イラン政治史でこの轍を踏まないとは言い切れない。
- NHKスペシャルのドラマ「星影のワルツ」を見る。久世光彦のしっとりとした演出にかなりはまる。柄本明も好演。大団円も後日談もなくつらく消え入るように迎える終幕・終戦の詔勅の場面が秀逸である。今回の終戦の日を迎える一連のシリーズ「戦争を知らない君たちへ」という副題から考えて、強烈な教訓を含めることなく、日常の中の戦争の姿を見つめさせる趣旨があったのではないかと思う。考えてみると「戦争を知らない君たち」というのはきわめて複雑で、誰を指しているのか疑問がわく。一見いまの若者を指しているように思えるが、単純に考えて平成13年のいま55歳以下の全てのひとは戦争を知らないわけである。たしかに政治的記憶としての戦争は強烈に根付いている。しかし社会史的戦争の記憶はどこまで共有されているのだろうか。その指摘を静かに狙っているようにも思えるのである。
- スタイルシート全体が実に非効率で膨大なものとなっているのを確認したため手直しをはじめてみる。