小泉総理が靖国神社に参拝した。構造改革とすさまじい景気減速という難問の前に一カ月を費やして空しく、しかし喧しく争論がなされた結末である。私はこの議論をまきおこしてしまったこと自体が失政であると思うが、問題そのものとはこの際関係ないし、どうせ結局解決はしなければならない「不良債権処理=戦後処理の処理」ではある。今回はいわゆる靖国問題について考えてみる。
公式参拝であるとか非公式参拝であるとか、A級戦犯の合祀だとか面倒くさい話がいろいろあるが、結局問題そのものは何か。私は次のように考える。第一に政教分離の問題第二に国家と戦争の問題である。これは実に当然のことのようではあるが、問題を問題として深めていくうちに徐々に意識から遠のいてしまったことではないかと考えている。諸相というより二つの問題の深刻な絡み合いを右と左という軸から考えようとしたために、かえって問題が複雑化したきらいがあるのではあるまいか。
第一の政教分離の問題については、言うを俟たないと思う。靖国神社はどのような見かけであれ、明らかに宗教施設である。当然その解決策として国立墓地の比重を高めるという案が浮かぶ。そのほうがよっぽどましであろう。靖国は宗教法人であって、国家の施設ではない。政府が特定の宗教法人を優遇するのは政教分離の理に適わない。その点から公式参拝はおそらく問題である。一方で信教の自由という点から考えれば、個人で参拝する分には目くじらを立てる必要はない。首相となったら個人的な信教について制限されるというのは個人の自由から考えていかがなものであろうか。そのような体制はある意味、特定の宗教を狙って、国家がそれを排除していることになるので、逆の意味で政教分離に反する。
続いて戦争と国家の問題である。これは見落とされやすい観点である。カントロヴィッチ『国家のために死ぬこと』が基礎となる。国民国家の統合と絡む問題なのである。アンダーソン『想像の共同体』に述べられているがごとく、「無名戦士の墓」とは国民国家の求心性を高めることに大いに意味があることである。一般に国民国家は国家のために死ぬことを国民に義務付けうるが、日本国がこれを認めているのかどうかいまいちよくわからない。であるとするならば、この観点から靖国問題はそもそも国家のために死ぬ、という行為を日本国がどのように評価するか、という問題も輻輳するのである。国家のために死ぬということを否定するならば、ある意味「尊い犠牲」を「尊い」ということなく、乗り越えていく必要があるのだ。
ここに大日本帝国の存続国家(継承というよりは名称変更したそのもの)としての日本国の罪の意識と、大日本帝国の被害者としての日本国民の心情、この二つの意識のねじれこそが靖国問題を生じさせたということができる。
しかしどのように評価しようとも歴史の焦点は巡り移っていくのである。うやむやのうちに忘れ去るより一定の結論を出して清算したいものである。