イスラームの神=アッラーフは人格的唯一神であり、キリスト教やユダヤ教の神と同一である。しかしイスラームは神と人との関係について、合理的である。たとえばキリスト教のようにイエスに神性を認めるために、はなはだの難しい三位一体の教説をとったりはしない。神は神であって、子を産むようなことはない。したがって当然神の子は存在しないし、預言者ムハンマドもあくまで人であり、奇蹟など起こさない。人は人、神は神で論理的に理解しやすい。
政治について考えると、キリスト教が第一義的に個人の宗教としての側面を非常に強く持つのに対して、イスラームは社会の宗教としての側面も併せ持つ。その結果、社会の宗教イスラームは政治をも律する。我々の思考からいえばこれは政教一致なのだが、そもそもイスラームにおいては聖俗の別がない、というより「聖」がないため、結果的に政教一致に見えるだけである。本質的に、ものごとのはじめに「政」と「教」が別々に存在していてそれを併せたのがイスラームである、のではなく、混在していたものを分けて考えるようになったのが現代の我々なのであり、マルセル・パコーのいうよな「神権政治(テオクラシー)」という発想はイスラームの本質ではない。有名な「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ」というキリスト教の発想は、おそらくキリスト教が誕生したとき、すでに帝国は存在しており、その政治と密接に関わる中で定式化されていったものであろう。キリスト教共同体は当初から政治を担うものとして設計されていなかったのだ。政治を担う秩序主体ローマ帝国は別に存在していたのである。その現実の中でキリスト教の社会と政治に対する働きかけの方式は育てられていった。しかしイスラーム共同体は神から統治の権能を委任された政治体であり、それが世界へと広がっていったのである。
イスラームはイスラーム共同体の宗教である。イスラーム共同体の宗教としてイスラームは、共同体社会を規定するものとしてのイスラーム法=シャリーアを重視する。イスラーム法の施行、維持こそがイスラームにおいて政治権力最大の役割なのである。そしてイスラーム政治思想史は、シャリーアを巡る解釈と施行の様態を軸として展開されることになるのである。曰くカリフ論、曰く統治論、etcである。
しかしここで思い返す必要があるのは、イスラームの宗教性そのものである。イスラームが宗教である一方、法思想であり、政治思想であり、社会思想であることはクルアーンの商行為の法や家族法をみるだけで非常に明らかである。だが、イスラームが宗教であること、その宗教性が政治思想に影響を与えているであろう可能性は忘れられやすいのではないだろうか。それを忘れると、イスラームが、我々の民主主義思想や人権思想と同じように、ある一つの体系をもつ「システム」的思想であるように考えてしまうだろう。イスラームが、イスラーム法のようにある社会が「導入」し「施行」するようなシステムの部分を持つのは確かだが、しかし同時にある個人が「信仰」する類のものであるということ、すなわち宗教である点、これを忘れてはイスラームを見る目は歪むのではないか。ではどこにそのキーがあるのだろうか。
私は井筒俊彦『イスラーム文化』岩波書店(岩波文庫),1991にある次の文章が重要であると考える。
この生きた人格神は、さっきも申しましたとおり、人間の側からすれば無限に遠い絶対超越的神でありますが、神の側からすれば、また人間に無限に近い神、「人間各自の頸の血管よりもっと近い」(『コーラン』五〇章、一五節)と言われる内在神でもある。超越と内在、そういう矛盾的性格をもって人間と関わる神であります。また、このような矛盾的性格の神であればこそ、人間は信仰を通じて、信仰と通じてのみ、これと人格的関係に入ることができるのであります。イスラーム教徒の宗教的体験としては、こうして成立した人格的関係の中で、今まで限りなく疎遠だった絶対超越神が、突然、限りなく親しい神に変貌します。
神が矛盾的性格を持ち、それを克服する手段が信仰である、という論理は重要である。イスラームは社会的制度として、非常に優れており、歴史的立場からはどうしてもそちらに集中しがちである。なるほど、イスラームはその教義において比較的合理的である。しかしながら、イスラームは単に社会的制度にとどまらない「宗教」である。単に合理的であると「信じる道」はなくなる。矛盾した性格を超えるもの、それが信仰であり、信仰以外にその道は開けないのである。信仰以外の何者によってもこの矛盾を解決することはできない。そう、これこそがイスラームが宗教たるゆえんなのである。
この矛盾的性格は、信仰の術であるが同時に問題も引き起こす。それが、セム的一神教に必ず付随してしまう自由意志の問題。ここからも導き出される神の矛盾した性格。しかしその矛盾は、すべてを創造する神が、やはり悪も為すのか、という疑問にいきつき、人のみならず神の倫理性にも問題が及ぶ。
イスラーム神学はこれを哲学的な原子論まで還元した。井筒さんは、前掲書の一章最後で原子論に触れる。イスラーム神学では神が、一瞬一瞬をまったく別に創造しており、物事が連鎖しているのは、たまたまそれぞれの事物という原子がそこにあったにすぎないとする。これを偶有論という。これに従えば、創造神としての神は完全に満たされるが、物事の因果関係が否定される。結果として人間が何かを為すということに理由はない、ということになる。すなわち自由意志が否定されるのである。しかし、ではなぜ人が悪を為すことがあるのか。これはカルヴィニズムのみならず、大きな問題なのである。
この議論には注意が必要である。イスラームにおいて、時は因果の連鎖として捉えられるのではなく、神がそのときそのときに創造しているものと考えるのだ、という偶有論が、アラブの思考様式として特徴的であると井筒さんは主張している。もちろん『イスラーム文化』が一般の読者を想定してかかれていることを考えると、原子論までふみこんでいるという点で、非常にレヴェルが高い。
しかしここでこの偶有論的発想は主にガザーリーなどアシュアリー派神学のものであり、このような立場をとらない神学派もあったということは重要だ。原因論についてアシュアリー派と対抗して、ネオプラトニズム的流出論を展開し、第一因は神にあるが、第二因としての人の意志を認めるムゥタズィラ神学も存在していたことを忘れてはいけない。このような見方をとれば、ある程度の自由意志を認めることができるのだ。
公正なる統治の対局に不正なる統治がある。不正の存在なくして、公正は定義しえない(クルアーンによっても)。では、なぜ不正があるのか。これが単にイスラーム法的に不法な部分があるからか。それだけではない。不正である、と人々が考えるからである。不正は神が行わせたのか。そんなことはないはずである。やはり、では、なぜ不正があるのか。神学的に神の創造性を強調すると不正は存在しにくいはずである。ところが人々はいつも不正を糾弾した。ということは人々は、アシュアリー神学が捨象した、人々が為す行為の連関と因果によって物事は起こりうると考えた部分があったに違いないのである。
井筒さんはたびたびアラブ対イランという構図を描かれるが、それを二項対立と単純に受け取ってしまうと、彼の複雑な議論で道を誤ることになるであろう。このときムゥタズィラはイラン的なのではなく、あくまでアラブではある。そもそもこのような形而上的な考え方はイラン的なものではない。単純にアラブと割り切るにはあまりに複雑なのだ。