また、あの春が来る

さわやかに晴れ渡っている。まだまだ寒いが、陽光にすこしの柔らかさと暖かかさが加わったように思えた。そう、あの春が来る。別れと出会い、変わるかも知れない明日、変わらない明日、いいようのない覚束なげな季節が。そのようなことを思わせる時季になった。

これからはじまる大学入試。いままで四年間、三田の正門前にたって新聞を配ってきた。いろいろな顔をみた。それが期待をこめた明日へのステップだったのかどうか、私は知らない。しかしまたその後に春が続くのは疑いのない事実だった。

志貴皇子の「岩走る垂水の上の早蕨のもえいづる春になりにけるかも」という歌に共感し、心をこめて待ちわびたあの春、白州正子の『花にもの思う春』を読んで、変化に期待をこめて想像したあの春は、もう二度とやってこないのかもしれない。いまの私には、冬が終わる、それが不安なのかもしれない。

いま思えるのは、べたっとしたパステルの空、あいまいな季節。そんな春だけ……。

  • 15時現在、日曜日分のMozilla Nightlyは出ていない。ちょっと心配のなのでBugzillaを検索してみる。
  • エスワイルのモンブランは栗だから当然秋しか出ない。当然なのに失念するとは。季節感のない世界を生きているものだ。

一揆、ドイツ農民戦争、共同体、そして

ドイツ農民戦争と宗教改革を境としてドイツでは、中世的永遠の中にあった共同体と、均質な支配を目指す領邦権力との確執を基調とした社会構造の変革が始まる。

日本では応仁文明の乱が社会構造の折り返し点であるということがよくいわれる(たしかもとは内藤湖南か)が、同時に中世的特長としての封建制がドイツと近似しているという説も時に行われる。しかしながら共同体的特質を見る場合、その結びつきの強さが類似するとしたらむしろそれは日本の場合は近世村である。

たしかに社会-権力関係では、領邦国家の均質支配への道と、戦国大名による一円支配の確立は、きわめて類似しているといえよう。ただし共同体の最たる惣村と領主の関係はドイツ農民戦争の構図でみることはできない。むしろ日本の場合、この時期をもって、領主層、百姓層それぞれに「一揆」という形で共同体観念が成立し、それが近世につながると考えるのが自然である。

一円支配の確立という社会-権力関係の変化は同様でありながら、同時に進行した社会構造の変化は、ドイツの場合は共同体の崩壊に、日本の場合は共同体の確立へと向かったのである。そして「一揆」という言葉はやがて農民叛乱をさす言葉として変質するという事態に、共同体の担い手としての「百姓」ならぬ「農民」の成立をみることができよう。

桜井英治『室町人の精神』

「室町人の精神」読了。少々荘園公領制の崩壊をもうちょっと詳しく書いてくれたら嬉しかった<唯物的にすぎるかもしれないが。政治史は物語風味。読みやすい。ただし「あの義教」「あの満済」(どの?)の多用が気にならないでもない。かわとさんの評室町時代とは?がわかりやすい。

公方観念の成立

公方とは日本史上、おおむね幕府将軍、とりわけ徳川将軍を指す。また室町においても「古河公方」の用法などもある。しかし「公」という字がからむこの言葉は単に将軍の人格そのものを指す言葉として成立したとは思われない。

それが、「公儀」へと変わってゆくその過程にこそ、日本の中世から近世への折り返し点がある。

特にこともなく

  • 晴天。風強し。特に語るべきことはない。
  • 夕刻。ネコの壁紙を作る。ましな代物になったら公開。髭のトリミングが面倒くさい。
  • Mozilla JLPのバックプレリリース版0.1を導入。長くNightlyを使っていたので、英語画面の方が使いやすい気もする。そういえばテーマもModernがかなり使いやすくなった印象。あえてLo-Fiを使うまでもないか?
  • 夜。三月上旬に再び北の大地へ。

信用決済と財の流れ

「太平記の時代」に指摘されていたことだが、中世日本で荘園公領制のもと本所が京都にあって、本所の領主そのものが荘園あるいは国衙に赴くことなく、在地や在庁に政務を任せたままで、それなりの収入を期待しえたことはおもしろい。

同時期のヨーロッパについて考えてみると領主はたとえ国王レヴェルでも領地に赴かなければ収入が期待できなかったのと比較すると、なにが原因だったのか。治安の良し悪しは必須条件であろうが、また在地が本所に貢納することを当然と考えていなければ、貢納されるはずがないのである。

もちろん関東や初期の室町殿が本所を保護したということもあろうが、それは保護されるべきであったわけで、どこからその観念が湧いたのか。そしてよく考えてみるとイスラーム世界におけるワクフ財からのあがりがきちんと配分されていたということもこれに等しい。神への寄進であるから当然なのかもしれないが、それが実力をもって横領されたりあまりしなかったのは何故か。想定される秩序はなんだったのか。

中世後期に入ると在地から本所への貢納も信用取引の形をとることが多い。鎌倉時代は関東と京都それぞれの領地が交互に散在していたため財の流れは二つの頂点をもちつつ重なり合って全国的に広がっていた。ゆえにその財の流れに乗ってっ全国的な信用取引が可能になった。ところが室町に入ると京都を中心とした財の流れと鎌倉を中心とした財の流れは領地の交換などもあって、重なりあうことが少なくなる。財の流れがなければ信用取引は難しくなるわけで、西国荘園-京都、東国荘園-鎌倉の信用決済はできても、京都-鎌倉の信用決済はできなくなる。このような状況は地中海世界でもありえたのだろうか。そこが信用決済の要であろう。

特にこともなく

  • クラナッハにて昼過ぎまで「太平記の時代」をよむ。読了。それなりに参考に。やはり「神の法」観念と「公益」は重要。
  • 夕刻よりジュニアレポート。予想外に作業が遅れる。
  • 本日Mozilla0.9.8リリース。あわせて起動画面を作る。壁紙をキャリスタ・フロックハートにしたが、おちつかず。結局どこからともなく999のものをひろって使う。mozillaがらみではpiroさんのとこのの進捗が楽しみ。深更、ビデオ返却。口咳治まらず。

特にこともなく

本日立春。温暖。特にこともなし。日記を再開する。

昼過ぎ、図書館へ。「蒙古襲来と徳政令」読了。「太平記の時代」「室町人の精神」借受。月報の中世の偽文書と法感覚について論じた阿部謹也の小文がヒントになる。

明日ジュニアレポート提出。ヴェローチェにて派手に珈琲をこぼし袖を濡らす。不快のきわみ。

昨年分日記に関して若干の補完の要ありとみとむ。特に北海道部分。22時に至って帰宅。口咳治まらず。