イラン:アーガージャリーと学生デモ続報

続報。昨日から状況が一変していたようで、事態は深刻化した。これは、アーガージャリーが控訴を行わない旨を表明したためである(13日付BBC World Serviceによる――余計なことであるが、中東の情報が一番早くかつ詳しいのはこのBBCである。現地紙よりも詳しい情報を伝えている。この点でアメリカのメディアは全然だめ)。アガージャリーはイランイラク戦争歴戦の勇士で、戦争中自らの足と弟を失っている。本人の声明に拠れば「あの戦争で、私は死ぬべきだった。あのときからずっと、いつでも殉教する覚悟はできている」とのことである。このコメントと彼の弁護士の楽観的態度をあわせて考えると、自らを使って国内的状況を一気に推し進めようとの意図が読みとれる。一方で最高指導者アーヤトッラー・ハーメネイーは歓迎のコメントを発した。ここでは、アーガージャリーが「殉教」というタームを使っているところがポイントとなる。これは昨日も指摘したとおり、事態が民主化だのなんだのをめぐる問題ではなく、イスラーム的であるのはどちらか、というアーガージャリー(と改革派)と司法府の争いなのである。

上記のようないきさつがあったためか、すぐに大統領ホッジャトルエスラーム・ハータミーがコメントを発した。「個人的にはこのようなことは受け入れられないし、不適当である」と言っている。明らかにアーガージャリーへの判決に反対していることがわかる。一方で「これ以上の事態の混乱は避けたい。学生は平穏になるべき」とも言っている。ここからは、急進改革派と保守派司法府との間に立って、経済、外交などの実践面を担わねばならない大統領の苦慮がうかがえる。そのように考えれば、死刑執行がされないとすれば、保守派の妥協か、ハータミーの急進化による保守派の押さえつけ、死刑執行がされるとすれば、ハータミーが急進化した上での政府内での地位低下、あるいはハータミーが保守化した上での地盤沈下、そのような道しか残っていないことが分かる。

イラン:アーガージャリーと学生デモ

ここ数日、日本の日刊紙では主に朝日が報道しているが、タルビヤート学院大学の歴史学教授アーガージャリー(今年8月に逮捕)に反イスラームの教説があったとして、ハメダーンの裁判所がは8日、死刑判決を下した。これに反対する学生デモがテヘラン大学やアミーレ・キャビール工科大学などテヘランの大学を中心としてケルマーン、タブリーズ、エスファハーン、オルミーイェ、ハマダーンなど全土に広がり、昨日はテヘラン大学では全日に渡って全学休校となったという。

この事態は、3年前の改革派有力者であったテヘラン市長逮捕の時と様相が酷似している。しかし次の二つの点が事態の展開を違ったものにすると思われる。第一にアーガージャリーに下された判決が死刑であること、第二に現況の国会(マジュレセ・メッリー=国民協議会)においては、昨年の選挙の結果改革派が多数を占めていることである。

まず第一の点から見てみよう。ホメイニー没後、保守派による改革派行政に対する揺さぶりは、ヌーリー内相など中央・地方の行政職にあるものの失脚を狙ったものであった。また、改革派一般に対するゆさぶりは、主にジャーナリズムを押さえるという形で現れていた。今回の場合は後者であるが、今回のものは失脚ではなく死刑判決であり、判決理由が「反イスラーム的」ということになっている。人一人の命をめぐった攻防であるから、事態は深刻で、「民主化」とかそういう枠で語られる事態ではないことがわかる。つまり命をかけた「イスラーム的」であるということ、そのものの定義が問われる事態であるのだ。20世紀初めから延々とくすぶり続ける「イスラーム的であること」の定義をめぐる問題が、また持ち上がったのである。場合によっては、マルジャァイェ・タクリード(大アーヤトッラー=12イマーム派シーア派の最高位法学者)間での議論になる可能性もある。というより、もっとも強くこの判決を要請したのは、大アーヤトッラーであるモンタゼリーであったという。モンタゼリーはホメイニーの後継として大アーヤトッラーにまで挙げられながら、その自由主義的傾向によって現在まで自宅軟禁に置かれている法学者である。ここ数年、きわめて保守的なファトワー(教令)を発していることが知られている。従ってモンタゼリーの現在の傾向はよくわからないのだが、すでに問題に大アーヤトッラーが関わっているということは、重要である。

続いて第二の点を検討しよう。

11日付の英字紙Tehran Times(電子版)が伝えるところによると、議会は改革派多数の賛成による決議で、この判決を「不寛容」で「多大な疑問があ」り、「イスラーム革命の道を逆戻りするもの」であるとし、これを最高指導者であるアーヤトッラー・ハーメネイー、および司法府に意見書を送致したという。また大統領府報道官も同様のコメントを発している。

この局面で、議会が死刑反対に回っていることは非常に重要である。改革派というとハータミーのイメージが非常に強いが、イランの政府構成上、大統領は単なる行政府の長にすぎず、行政は司法に介入できない(司法府は最高指導者直轄)。また最高指導者にしても「この事態を三権が解決できないならば人びとの力を借りるしかない」という、改革派への脅しとも、司法府に譲歩を勧めるともとれるコメントを発しているだけである。英BBC World Serviceでは、この「人びと」を革命防衛隊(パス・ダーラーン)=民兵と解釈して、改革派への脅しとしているが、もうすこし微妙な解釈が必要であるようにも思える。イランでは立憲制と議会を尊重する伝統が形成されており、最高指導者にしてもホメイニーほどのカリスマ性はとても期待できないので、公然と議会を無視することは不可能である。

12日付の国営イスラーム共和国通信(IRNA)が発行する改革派新聞Hamshahriによると、最高指導者ハーメネイーは12日、三権の指導部を招集し、この問題についての協議を行った模様である。隣国イラクが国連決議を受託するかしないかという局面にある国際政治的状況からいって、最高指導者にしても行政にしても、国内のゴタゴタはなんとしても避けたいところである。前述のハーメネイーのコメントも、最高指導者としては当面、静観の構えをとることを示している。そもそも裁判についても、まだハマダーンでの地方級一審であり、被告も控訴の道が残されている。したがって、デモを武力によって制圧するようなことは、事態を一層ややこしくするだけなので、ありえないだろう。おそらく学生デモの鎮静化にむけて何らかのコメントが発された後、数ヶ月にわたって妥協の道が探られる、というのがもっともありそうな展開である。一気に民主化に進むような事態や、逆に弾圧による綱紀粛正は考えにくい。

古い概説の楽しみ

ここのところ、前嶋信次や嶋田襄平といった人びとの書いた一時代前の概説書を読みあさっている。イスラーム世界の研究者はここ10年ほどで激増した、という印象がある。だから、古いものは本当に古くなってしまっていると思って、ちょっと敬遠していた部分があった。ところが、読んでみるとこれが意外な発見が多いし、基本的な枠組みはいまの概説書とも変わらない。そして、なにより、文の運び、語の選び方がすばらしい。もちろん、いまの概説書もテーマの選定、物語の運びには、感嘆を禁じられないものが数多い。羽田正さんの平らかでしかし余韻ののこる語り口、山内昌之さんの該博な語彙などいくらでも数え上げられるだろう。しかし、なにかしら、香りが異なる。もしかしたら、前嶋さんらは中国史料にも親しまれた世代だからかとも思う。しかし、言葉にも世代があるというのなら、あの人たちの世代といまの世代とは、違うような気もするのだ。前嶋さんの流麗な、嶋田さんの澄明な、イスラーム世界の『長安の春』。あのような文章が読みたい。

本が壊れた

本が壊れた

昨日の『イラン人たちの目覚めの歴史』が物理的に崩壊した。背表紙が割れ、表紙がとれ、中身がバラバラ……。なんとしたことか! それほどひどく扱った覚えもないが、私も重罪人の仲間入り。

カンダハル

TSUTAYAで「カンダハル」というイラン映画のDVDが出ているのを見かけた。例の戦争からのカンダハルでの人の生き様を描いたものらしい。かつて世界を共有し、いま別々の国となっているイラン人が描くアフガニスタン。そのまなざしに注目したい。

寒い

特に言及するわけでもないが寒い。

落書きするな!

本当に、お願いだから、図書館の本に落書きしないでほしい。

というのは、昨日、アリー・ブネ・モハンマド・ナーゼモ・ル・エスラーム・ケルマーニーの『イラン人たちの目覚めの歴史』を借りたのだが、いきなり 表紙の題名から、アラビア文字にローマ字がふってあるのである。そして延々と本文にも母音記号やその訳語が書いてある。それだけでも最悪なのであるが、そ れ以上に問題なのは、それが70%程度間違っているということ。

表紙のローマ字からして間違っている。ペルシア語の書物は、表題などはナスタアリク体で書かれることが多いのだが、それが読めていない。khと gheinを間違えるなどとてもなっていない。だいたいアラビア語かペルシア語かもわかっていなかったのではないか。訳語の誤りをみているとそのように思 える。

こんなことで馬鹿にしても仕方がないが、罪が重いのでこき下ろしておくことにした。

街の灯がひとつ、消えた

SMBCの千石支店が今日をもって閉店した。銀行の支店統廃合の加速のなかで当然の措置とはいえ、千石支店は千石一丁目交差点の四つ角の一角を占めていた街の顔であった。地下鉄出入口があり、不忍通りと白山通りが交差する千石一丁目交差点の一角から、店の灯りが消える。

この支店の窓口には、私がさまざまな振込でたびたびお世話になった。これからは巣鴨か白山、あるいは三田の支店を利用せねばなるまい。それはそれで 仕方がない。しかしながら。願わくば、この銀行のあった一角が、閉店済みのまま放置されず、新たな街の中心となる店舗に生まれ変わることを。

革命の真実と心性

ここのところディケンズを読んでいて、『二都物語』にちょっとはまり、その影響でフランス大革命にまたまた興味が回帰した。ついつい『ベルサイユのばら』も読んでしまったのだが、そもそもの私のフランス革命観というものが、なにかずいぶん古くさいところで止まってしまっている気がしたので、五十嵐武士,福井憲彦『アメリカとフランスの革命』(世界の歴史),中央公論新社,1998.を読んだ。

結局のところ、フランス革命が大革命となったゆえんは、民衆の動力があったからこそ、ということである。革命は、球戯場の誓い以降、専制啓蒙体制、立憲君主体制、自由主義的共和制と何度でも軟着陸のチャンスがあった。しかしその解決を模索する時間は、常に「パンと価格統制」という民衆の示威の前に奪い去られ、革命は新たな段階に突入し、続行したのである。価格の統制は、自由主義的啓蒙思想に立脚する議会が常に拒みたい選択肢であった。モラル・エコノミーと啓蒙思想は、革命の両輪であった。だが、それは常に寄り添いあうものというよりは、相争う面ももっていたことを忘れてはならない。

「革命は銃口から生まれる」。毛沢東の見通しは正しいものであった。しかし、その銃口が生まれるには、あまりにも多数の複雑な要因が絡まり合っているのである。フランス革命研究は、ここまで進んでいる。しかし、その一世紀近くのちのイラン立憲革命研究では、まだまだその心性に言及できるほどの史料が揃っていない。人口史的経済史的社会史的研究はまだまだ端緒に付いたばかりなのである。

中共15期七中全会続報

昨日も論じた中国ネタ。朝日新聞が昨日の夜いち早く伝えたところによると、胡錦濤の総書記就任、温家宝の国務院総理含みの中共中央政治局常務委入り、江沢民の中央軍事委主席留任はほぼ固まった模様。妥当な落としどころである。問題は中央政治局の新たな顔ぶれと李瑞環の処遇である。李瑞環はナンバー4で、政協主席という一種名誉職に近いポストにいる。今回の党大会では彼は定年を迎えない。「政協」そのものの位置づけを含めて、微妙なキーになりそうな感じがする。

篠原千絵『天は赤い河のほとり』全28巻

最近わたしが読んで気に入った漫画に、篠原千絵『(そら)は赤い河のほとり』全28巻, 小学館(フラワ-コミックス), 1995-2002.がある。現代日本の少女が、ヒッタイトの皇妃の魔術でヒッタイト世界に引きずり込まれてしまう。皇妃は我が子である末の皇子を次期皇帝とする生贄をもとめて魔術をおこなったのであった。しかし引き込まれた女の子ユーリは皇妃の敵である第三皇子と恋をして、皇妃の陰謀とそれにまつわる政治の舞台で戦い、そして時に冒険をし、やがて皇子と結婚し新皇妃として帝国に君臨してゆく。基本的には、少女の成長物語で、王子様物語なので、べたべたといえば、そのとおりである。

一番頻繁に指摘されることに『王家の紋章』との類似がある。確かに物語のきっかけは、ほとんど同様だし、王子様物語の点も、現代の知識をつかって古代(というより考古学年代)を生き延びるという点も同様である。であるが、本質的な違いがある。それはストーリーの動因だ。『王家の紋章』は、さまざまな「王子さま」が登場し、そのうえでひたすら横恋慕と陰謀と誘拐だけが永遠に連なっている。「王子さま」たちは政治も軍事も全て無視してでも決してキャロルをあきらめることはない。その永遠が、あまりに単調なのだ。それに対して、『天は赤い河のほとり』では、すこしずつ環境が動く。『天は赤い河のほとり』の王子さまたちは、なし得る政策合理性と己の感情の中を悩みつつ進んでゆく。なによりもラムセスはユーリを「あきらめた」。『天は赤い河のほとり』には若干のリアリティがまだ残存しているのだ。その点で鉄器や馬といったものにかかわる研究をトレースしているように見えるのは、好ましい点だ。おしむらくは、騎乗している絵に「鐙」が描かれていること。鐙の導入によって、軍事力としての馬の価値は四倍増に近い。そしてこの時代、鐙はまだ発見されていないであろう。馬に注意を払った作者であっただけに、残念である。とおもったが、よく考えたらユーリが鐙に思い至らないのはおかしい。私は経験があるが裸馬に乗るのは本当につらい。ここは欠点である。

一方で『天は赤い河のほとり』には、『王家の紋章』に見られる現代と過去の相互通行性がない。これがあれば巻数倍増でよりおもしろくなっていただろうに、と私には悔やまれてならない。が、それはそれでよいのだろう。解決のつけようのない問題ではあるのだから。

あほなことをやっていた

ここ数日MozillaがやたらめったらConection Refusedを吐くので、重大な不具合だと思っていたが、なんのことはない。以前に設定したプロキシをそのまんまにしていただけだった。学校で使うときはプロキシ設定をするので、それを直すのを忘れていた。はやくChange ProxyがNetscape 7/Mozilla対応になってくれると嬉しい。

今日の追記

書き忘れていたので。以前に掲示板でトラさんにかんする指摘をいただいた。それについて【第353回】 トラさんを保護せよに追記を施した。

Sidebar tab for National Geographic on Mozilla続々報

以前にNational Geographicのサイドバータブのページが全くメンテナンスされていないことに言及した。Netscape 7のリリース以降に修正され、きちんと見ることが出来るようになったようだ。件のページはPhoto of the Dayという毎日日替わりで動物や、世界各地の写真が掲載されるページで、サイドバーのURIはhttp://www.nationalgeographic.com/pod.html。Mozilla、Netscape7でのサイドバーはhttp://channel.netscape.com/sidebar/sbd/s09subcat1.tmpl?cp=msdiparts#artsからインストールすることができる。

Bugs about Print Preview of Mozilla

Mozillaを使う人はあまり印刷などしないのかもしれないが、やっとこさ実装されたプリント・プレビューにはまだまだ問題がある。備忘録。

Bug 126719 – CTRL+R reloads page in the print preview window

Print Previewの画面でリロードしようとしてCTRL+Rをすると、Print Previewのツールバーを表示したまま、普通のブラウザモードに移行してしまい、にっちもさっちもいかなくなるというBug。ターゲットは future。プレビューでリロードするやつなんていない、という議論もあるが、たとえばプレビューをみて印刷時に不具合があることがわかったとする。そ の時Mozillaをプレビューモードのままにして、CSSを修正し、Mozillaに戻ってリロードという行動は充分に予測できる。

Bug 129025 – Print Preview: Need UI to select Zoom Level of display

Mozilla のPrint Previewでの拡大・縮小は、IEのプレビューでのそれと違って、ブラウザモードと同様、レンダリングのフォントサイズを変えるというものだ。いま A4で1行50文字の文書がプレビューで表示されているとしよう。この時、IEでは拡大率200%にすると、ページ内でのレイアウトは何ら変えることなく 1行50文字のまま、文字は200%拡大された状態で表示される。言い換えると紙の横幅が100%の時にくらべて2倍になって表示される。きわめて当たり 前だと思うだろうが、Mozillaでは違う。Mozillaでは、200%にすると、レイアウトが変更されて1行が25文字になる。つまりIEのブラウ ザ画面での「文字の大きさ」で「大」とか「中」とかを変更したのと同じ効果になる。ユーザーはPrint Previewでの拡大・縮小は、ディスプレイ上でより大きく見たいとおもって使うはずで、印刷される文書のフォントを大きくしたいわけではないだろう。 fixされるべきだ。ターゲットはfuture。

Bug 126725 – Personal Toolbar appears when exiting Print Preview

プレビューを表示して、ブラウザモードに戻ると、パーソナルツールバーを表示しない設定にしていても出現してしまうというBug。Trunkではかなり前にfixされたが、1.0-Branchには入れてくれない模様。いかがなものかとおもうが。

中共15期七中全会

報道によると、昨日から第15期中国共産党第7回中央委員会全体会議がはじまった模様。以降、今月前半をかけて、これから五年間の中国の道筋、すなわち第16期中国共産党を決定する党大会を中心とした一連のイヴェントが北京で展開する。

ただし、党大会はやはりイヴェントであって、その筋書きは夏の北戴河と大会直前の中央委員会全体会議で決定される。今回の七中全会は、ナンバー3である中共中央政治局常委・国務院総理の朱鎔基が、APECのため三日間の日程のうち、最終日を除いて欠席するという異例の環境で行われることとなった。これは、普通なら何の波乱もないであろうことを示しているのだが、一方で夏の北戴河で、ほとんど何も決まっていないのではないか、という観測も浮き沈みしているだけに、かなり政治がらみの要因があるようにも思える。

今次の党大会の最大の焦点は、なんと言っても指導部の交替である。今回、江沢民、李鵬、朱鎔基のトップ3がそろって定年のために、すくなくとも政治局常委からは退くことになっている。現在、江沢民は中国におけるもっとも重要な三つのポスト、すなわち国家主席、党総書記、国家・党中央軍事委主席を占めている。憲法の規定によって、国家主席が胡錦濤に変わることは、ほぼ間違いないとされる。規約上は、党総書記からも退くことになっているが、夏以降江沢民の総書記留任という説も流れている。最後の軍事委主席は江沢民が手放すことはおそらくないだろうと思われる。軍事を握ることは、中国統治の枢要である。故鄧小平は中央委のポストを手放しても軍事委主席だけは握っていた。

実は江沢民がどのような位置をしめようと、IMF加盟を実現したいま、大きな政策変動があるとは思えない。その意味では上のような話は、一種ゴシップのようなものである。注目されるのは、中央委に補充されるのがどのような人びとであるか、である。彼らが、地方党幹部か、中央のポストを進んできたか、あるいは国務院筋なのか。むしろ次の次の指導部のありようが、はじめて明らかにされる舞台と考えるほうが、考えとしてはおもしろい。

千代田区禁煙区域、過料徴収開始

以前も言及したが、基本的によい措置であると思う。区域指定はむしろ分かりにくいので、千代田区内の街路上全てを禁煙区域にすべきではないのだろうか? すみわけをはっきりすること、これが重要である。「会社に遅刻したら責任とってくれるの?」と叫んで三万円を投げつけていった人がいるという(『産経新聞』)が、我々喫煙者は、いろいろな責任を押しつけられ始めると無限に押しつけられうる存在なのである。その自覚は少なくとも持つべきであろう。千代田区の条例は、喫煙者をも守るものなのである。

ウラディーミル・アシュケナージ NHK交響楽団 音楽監督に就任

ウラディーミル・アシュケナージ NHK交響楽団音楽監督に就任(N響:N響について/プレスリリース

いささか旧聞に属する類だが。結局デュトワの数年でN響は変われたのか? 木管群がどれくらい変わるかで、フランス音楽への親和性は変わるような気がするの で、それがキーになるだろう。アシュケナージがトレイナーとしてすぐれているのか、私には少々疑問。なにか、名前を採った気がしてならない。あの前後、N響のデュトワ、都響のベルティーニ、読響のアルブレヒトと著名な監督が次々と呼ばれたわけだが、この在京オーケストラの数年の意味は、あと五年くらいで明らかになるだろう。

早大に漫画文庫設置 世界に誇る文化を保存

河北新報ニュース 早大に漫画文庫設置 世界に誇る文化を保存

非常に正しい判断。いままで自分でやらにゃならんとおもっていただけに感慨ひとしお。なにしろ二年遅れると、絶版になっているものが多すぎるのだから。……でもこれ、共同配信じゃないの? 河北すごい。

NDL-OPAC雑誌記事索引サーヴィス開始

11月に入って、国立国会図書館のNDL-OPACで「雑誌記事索引」が使えるようになった。これまで論文を探すには、大学の図書館などが契約したMagazine-Plusなどのサーヴィスを通じて検索するしか手段はなかった。たとえば慶應義塾の場合は、図書館に行ってWeb接続のコンピュータから検索するか、学内ネットワークに接続してからでないと検索できなかったのである。それがインターネットを通じて誰でも無料で使えるようになったこと、その意義は強調してしすぎることはないだろう。論文を探して読むというプロセスは、物事を学術的に調べようとしたら避けて通れない。しかし、論文を検索する手段が、これまでは研究機関に所属しなければ、ほとんどないという状況であったのだ。

今回のNDL-OPACでの「雑誌記事索引」の公開によって、はじめて人文系の研究でも網羅的な雑誌論文データベースへのアクセス手段が、広く共有されるようになったといえる。現状では、研究機関に所属しなければ、物事を調べることは非常に困難である。論文へのアクセスを除けば、まだ色々な困難さがある。そのあたりの図書館に学術雑誌が入っていないということなどは、その最たるものだろう。しかしそれでも、その困難さの一つが取り除かれたということは、「在野の学」のためによろこぶべきことであろう。インターネットの恩恵がようやく人文科学にも及んできた。