2002年1月~10月の読みたい本























































xyzzyなWEB

一時期(一年半前くらい)、熱を上げてLispを書きまくったxyzzyですが、知らない間にWeb上の情報がえらく増えていてご満悦。というわけで二つほど。

Xyzzy link page +

字が異様に小さいけれど、ものすごくよく集めてあって、xyzzyのポータルというべきもの。ちゃんと解題付き。

Tips/xyzzy

emacsとかにさわったことがないと、なにがどうなってるのかわけのわからないキーバインド。これがあれば初めての人にもおすすめできます。

ファンサッブ

Fansubbing

異文化コミュニケーションの原点でしょうか。。英語論としてもおもしろいです。

アニメの国、日本。……今や世界のいろいろな地域にアニメファンがいるが、すべてのアニメがその人々の望む言語で手に入るわけじゃない。すべての映画に日本語字幕版があるわけじゃないのとおんなじだ。アニメは海外アニオタにとっては「神の言語」ともいうべき日本語がオリジナルなのだ。(この記事をすらすら読めるみなさんは、神だ……)

妖精現実 フェアリアル

ということで、日本でリリースされても必ずしも字幕版になったりするとは限らないアニメを、自分たちで訳してしまえ、という人たちがいるようです。で、その人たちをファンサッブFanによるSubtitling通称Fansubというようです。その精力的な活動はすさまじいものらしいですが、訳そのものにはいくつか問題も。「神の言葉」を操れる我々はなにができるか、というお話です。しかし、これ。イスラーム的というかなんというか。ジズヤでもいただけるんでしょうか。

役立つ電子史料

The Latin Library

ここのラテン語の電子テクストは本当によく整備されています。すばらしい。どんな言語でもこういうのが整備されるとよいですね。国立国会図書館でも近代デジタルライブラリーとして明治期刊行の図書を見ることができるようになりました。願わくば、東洋文庫様……以下略。

イスラーム関連でオンラインで参照できる史料集としてはal-Islam.orgのIslamic Sources Repositoryなどがあります。この類収集してみたいです。

namazuまわり

ここ数日namazu.cgiがInternal Server Errorを返すのでなにがおこったのかとおもって、一日費やしていろいろやってみました。あげくの果てにわかったことが、いつの間にか環境が更新されていて、$HOME/cgi-bin/以下しかcgiが使えなくなったらしいということです。結局いろんなもんのパスを書き直さなければなりませんでした。管理者としてはこれほど重要な事柄はきちんとインフォメーションして欲しいと思います。ftpでもsiteコマンドが使えなくなっていました。たとえばFFFTPからパーミッションの変更ができなくなるということです。とにかくなんのアナウンスもなくこういうことを行われると自分のミスかと思って焦るので、mita.cc.keio.ac.jpの管理者には猛省を促したいと思います。

さて、その付随物といってはなんですが。以前に日記でnamazuとUnicodeについて言及しました。とっととUnicodeに対応しろ、というやつです。しかし、そもそも解析の際、namazuはnkfを通じて、検索対象の文字列を得ていたわけです。したがって、Unicodeの文書に対応できないという問題は、namazuの問題ではなく、nkfの問題だったわけです。このほどめでたくnkf 2.0.1においてnkfはUTF-8に対応しました。

学校のサーバのnkfは古いので、とりあえず自分の領域にnkfをインストールしてみました。これでUTF-8で書かれた日本語の文章に関しても、namazuから検索ができるようになりました。とりあえず問題は解決です。あとはUTF-8でエンコードされた多言語混在の文書をどう扱うかです。これはnamazuの問題なわけで今後に期待です。もっともアラビア語やペルシア語まではもとめませんが。

電柱電線論 第I

「東京の空は、狭い」とか何とか言って、建物や人の多さを論じ、さらに都市と農村という伝統的二項対立にもちこむような議論が、繰り返されています。この場合、第一段階の「東京の空は、狭い」のは、人と建物が多すぎるせいだというのは、あたかも共通認識であるかのような印象を受けます。

しかしながらその点についてもう一度考えてみましょう。「東京の空は、狭い」という言葉は、空を見上げたとき、その視界が狭い、ということを表しています。単に直立して前方を眺めたときに、視界が狭いのは確かに建物があるせいです。建物が集まって出来ているのが現在の都市の姿である以上、それは仕方がありません。このこと自体を美しくない、と感じるのならば、議論の余地はありません。しかし論じられているのは、「空の狭さ」です。ということは、建物が集まっている都市というあり方そのものには、譲歩の余地があるということです。では、はじめに戻りましょう。なぜ「空が狭い」のか。

なにをいまさら報告

なにを今更ということですが、ようやく大学院に受かりました。来年から文学研究科史学専攻に行きます。二年間、英語を一生懸命やったつもりですが、 「できないねぇ」と言われてしまいました。いろいろと考えることの多かった二年間ですが、さらに二年間延長されます。いまは「イラン立憲革命初期」を研究 していますが、たぶんその続きをやるでしょう。これから数カ月間については、以下のノルマを自分に課します。

  • 日に20-40ページの英語を読む(というか読まないととてもではないが、かき集めた文献を読み終わらない)。
  • 二日に一度、3時間程度はペルシア語を集中的に読む時間を設ける。……できれば黒柳『ペルシア語辞典』が欲しい。3年前くらいのときの勘を取り戻す。
  • 週に一本程度の分量のフランス語を読む。フランス語は最初からやりなおし。仏検持ってても忘れたものはしかたがない。
  • 年を越すまでにキリル文字を読めるようにする(立憲革命研究はソ連に分厚い蓄積があるのです)。ハングルを一週間でほぼ読めるようになったことを考えれば特に問題はないはず。
  • ドイツ語は……やる余裕ないだろうなぁ。

ところで、「やらないで後悔するよりは、やって後悔した方がいい」という言葉がありますが、では、やらないで後悔しないのとやって後悔するのではどちらがいいのでしょう。やはりこれは文脈の問題ですかね。

嘘はない

なぜそんなことだけを覚えているのか。いや、そんなことだけを覚えているのではなくて、なんでそんなことじゃないこと、を忘れてしまっているのだろう。いつも、いつも、いつも。どんどんどん忘れてゆく。

寂しかったときに、淋しさをわすれさせてくれるような、うれしかったこと。それがなんだったのか、忘れてしまった……忘れてしまった。覚えていられなかった。ただ、淡々と過ぎてゆくみんなの足音、私の足音。その足音のはるか背後に忘れ去った落とし物があるのだろう。どんどん踏まれ、破れ、ちりぢりになり、空気にとけ込んで。

落とし物は想い出。足音は時間。一緒に歩いているとき、足音はきっと聞こえないはず。だから一緒に歩いている私にも聞こえない。でも。ときどき、それが聞こえる。無限に続く去ってゆく足音が。だって、どう考えたって聴きたくない。私が忘れられてゆく音なんて。でも。もしかしたら。あぁ、私は思ったんだ。本当は、本当は、立ち止まりたいんじゃないだろうか。時々振り返りたいんじゃないだろうか。そういうふうに。

時々聞こえる足音を聞きたい。なんで時々足音が聞こえるんだろう。それはちょっとだけ立ち止まってみたから。そして。もっともっと立ち止まっていたい、そう思ったから。もっとゆっくりと。これは、速すぎる。そう思ったんだ。そう思ったときの私に、嘘はなかったはずだったんだ。うん。私に、嘘は、ない。

室内楽を聴く

室内楽

いままでコンピュータでなにかをやっていた時間をなにに充てるか悩んだのだが、これまであまり聞き慣れていない室内楽を聴きまくった。千石図書館にあった20枚ほどを聴いたが、この中で気に入ったのが、フォーレのピアノ五重奏曲第一番とシューマンのピアノ四重奏曲。特に前者は、おそらくフランスの「エスプリ」が濃厚に感じることが出来る(と勘違いすることができる)素晴らしい作品である。やはりフォーレ、サン=サーンスが好きである。ラヴェルとドビュッシーは邪道だ。

おまけ

そのまま、ただそのままで……。

ピアスが光る。薄暗い水族館。水槽だけが、青い光をほのかに放つ。

PC故障

PC故障

先日ベッドの上でコンピュータを起動させたまま、いつの間にか寝てしまった。起きてからそのことに気づいた。電源は落ちていたのだが、やたらと熱くなっている。自動的に電源が落ちるとしてもサスペンドのはずなので、復帰を試みる。しかし、うんともすんとも言わない。しかたなく、電源スイッチをいじる。それでもうんともすんとも言わない。

事ここにいたって、どうもまずい状況であるらしいことに気づく。改めて見てみれば、本体下面のファンの排気口の他、両サイドの排気口も布団カバーの布でふさがっている。こうなれば熱が貯まるのは理の当然である。熱暴走どころか、マザーボードでのショートとか、やばい可能性をいくつも気づく。何度やっても電源は全く入らなかった。バッテリの放電などを試みても全くの無駄。

致し方なく修理に出した。SONYの場合、おおむね一週間で戻ってくるそうである。その後の連絡によると予想通りマザーボード回路の破損が原因だったそうである。まるまるの交換ではなく、補修で何とかなるそうで、わずかに安心した。翌日学校で貸出ノートPCを借りてきて、いつも使っているアプリケーションなどを導入した。これが意外と時間がかかるもので、日々作ってきた環境というものの大切さを痛感した。

PCなしで

その貸出PCでなんとかしのいでいたが、修理に出していたPCが戻ってくる4日前に返却期限が来てしまった。もう一度借りようかともおもったが、面倒くさいので、4日間をPCなしで過ごすことにした。このときが、ちょうど台風7号が来たときに重なった。

最近はニュースはWebで読んでばかりいる。新聞は速報性に劣るし、高いし、ゴミがたまるのでとるのをやめた。テレビのニュースは簡単すぎておもしろくないし、同じ映像が何回も映っていらだつので見ない。そのような状況でPCがなくなったので、致し方なしにテレビを見たのだが、同じセリフを何度も聞かされて実に不快だった。読みたい記事を選択して読むことが出来るということがなんとありがたいことと思ったことか。

英語の壁

読むという行為は受動的なのだが、解釈という行為まで含むと考えると能動的な部分もある。私は英文における社会言語学的なレヴェルの解釈はどのように学べるのか、ということに不安がある。

たとえば、私はこのところ論文や論説ばかり読んでいるので、ほぼ「論説文」的なレヴェルの文章を読んでいることになる。日本語で言えば「だ、である調」の文章である。しかし新聞記事などでもインタビューで生の文章が出てくることがある。そこでの文章が「だ、である調」なのか「です、ます調」なのかで、インタビューされている人の印象は変わる。ところが、私は英文に関して、これがわからない。文の意味はわかっても、それがどのような「語られ方」をしているのかがわからない。これでは情報は半減しているのではないか。

同時に発話の場合も同様であろう。「感謝します」と「大変感謝する」と「ありがとう」はまったく別の言葉である。英語でそれぞれはどのように表現されるべきなのか、そるいはそのような表現は不要なのか。どうすれば学べるのだろう。

神と忠誠

合衆国での宣誓の文句「…. under the God.」がいま物議を醸している。ある無神論者が、息子が学校のある場面で宣誓を求められたことについて、合衆国憲法修正第一条違反であるとして訴訟を起こした。これについてサンフランシスコ巡回高裁が違憲の判決を下した。その結果、すさまじい議論がわき起こっている。これについてはCNN.comのCNN.com – Vast majority in U.S. support ‘under God’ – June 30, 2002をご覧になるとよいであろう。

Newsweekの世論調査によると約四分の三近い回答者が、この違憲判決に反感をもっているようである。これについては「特定の神」をさすものでない限り、という保留がつくものの、the Godはセム的一神教の神であろう。under Godsといってはたぶんいけないのだ。議論の展開を見守りたいと思う。

ヴァチカン教皇庁図書館展

印刷博物館で開催されているヴァチカン教皇庁図書館展に行ってきた。私は歴史的史料を期待していたのだが、展示品は基本的には全て聖書で、その約半数はファクシミリ版であった。紀元三世紀のものというすさまじいものもあったが、気に入ったのは非常に美麗なルネサンス期の個人祈祷用聖書。特にエステ家が使ったというものが素晴らしく精巧であった。啓典の美術性というのはすばらしいもので、これはコーランにも言える。一冊に対し、世界的宗教のエネルギーが結集するということは、こういうことを意味するのだ、ということがわかる。

量的にはやや不足の感もあったが、むしろ40冊前後というのが見て疲れない程度の量という気もした。

関連リンク

フィンランディア

コンサートでフィンランディアの合唱付きというのを聴いた。フィンランディア自体派手な曲だが、合唱が入るとさらに派手。再現部とコーダの主旋律が ほぼ合唱になる。この手の合唱の入れ方は、威風堂々のLand of Hope and Groryや、1812年のロシア国歌などで見られる。なかなか勇ましくてよいものである。

ちなみに同じシベリウスで「カレリア」全曲版での終曲はフィンランド国歌である。

池内恵『現代アラブの社会思想』

『現代アラブの社会思想』は9.11後の出版。本書の概要は次のようになる。社会思想史的には、アラブの「現代」は1967年、第三次中東戦争の敗北に始まるという。ここでナセリズム、アラブ社会主義は退潮し、かわってイスラーム主義と急進左翼の勢力が強くなったと言う。しかし急進左翼は、その理想像とした中国文化大革命の真相が明らかになることをはじめ全世界大での左翼の敗退をきっかけに勢力を失った。一方のイスラーム主義も理想像を鼓吹するのみで、その行動は次々と先鋭化するにもかかわらず、現実的な対策を具体化することはできず、結局イスラエルを倒すことはできなかった。

ここに、現世での理想郷の建設をあきらめ、来世に求める終末思想が登場する。そして急進左翼の倒すべき目標アメリカ=イスラエル独占資本主義帝国主義枢軸とイスラーム主義のジハードの対象であるアメリカ=イスラエルは、陰謀をたくらむ偽救世主にまで昇華するのだ、とのこと。

著者によると、オカルト的な色合いを帯びた本もサブカルチャーではなく、立派な著作として受け取られる風土がすでにエジプトには形成されているという。これを一つの社会誌として受け入れるならば、それはエジプトであるがゆえなのか、あるいはアラブ全般なのか。そして非アラブのイスラーム世界ではどのようにこのような傾向が受け取られるのだろうか。

私市正年『イスラム聖者』

『イスラム聖者』は確かにまともな本なのだが、いまいちおもしろくない。これは私がそもそもあまり興味がないということもある。私市さんの聖者へのアプローチは、人類学的手法というよりは、あくまで歴史学的手法をとっており、聖者伝などに依拠する。しかし、聖者伝史料自体が、マグリブそれもモロッコなどの西部に分布が偏っており、そこに現れる聖者像がどこまで一般化出来るか疑問もある。本書ではあくまで時代的・地域的対象を絞っていることをきちんと記述してはあるのだが、読み物としてはおもしろくなくしているとは言えるだろう。これはマグリブ関係の書物一般に言えるのだが、社会誌や人類学研究と政治史の関わりがいまいち見えてこないことが多い。政治的変動と社会構造の観察はヤヌスの両面をなすとおもうのだが。

なお、そもそも「聖者」というのがアラビア語の一般名詞として考えるべきではない、というのは注意を要する。地域ごとに「聖者」の呼ばれ方はことなっており、その性格も異なる。したがって「聖者」とはキリスト教における聖者とは全く異なり、テクニカル・タームなのである。