永久保陽子『やおい小説論―女性のためのエロス表現』

博士(文学・専修大学)学位請求論文。

やおい小説研究にまがりなりにも入りかけた人間として、やおい小説研究はついに博士号が出るまでになったかという感慨をいだかざるをえない。しかも本書は、これまで多々出版されてきた読者と作者をめぐる社会学的分析、クラスタ的分析ではなく、テキスト分析の方法による論文である。これまでの作者・読者をめぐる社会的コンテクストに準じての議論の多くは、本当にやおい小説=テクストを読んだのか?という疑問を抱かせるものであったし、読んでいたとしても安直な思いつきじゃないか?と疑わせるような結論に失望せざるをえなかった。そして文学的な視角からはほとんど無視されてきたのがやおい小説であり、やおい小説をめぐる研究は、社会学の独壇場であったといえよう。本論文は浅薄な社会批評とは一線を画し、方法としてのテクスト批評にかなり自覚的である。当然、やおいマンガとやおい小説の差異についても考慮が払われている。みごとに読者とテクストの関係において果たされるやおい小説の機能を説得的に描出している(<受>とか<攻>、あるいは「やおい小説」そのものを知らない方は以下は読んでも意味不明だろうが、あえて記しておきたい分析なので書いておく)といえよう。

以上に明らかなように本書の問題意識は、やおい小説の存在の意味とその機能、つまりなぜ男と男なのか、そして読者はそのような小説に何を求め、一方でテクストはいかにしてそれを充足させているのかということである。その結論は290頁の一段落に如実に示されているといえよう。

「読者」は、構造において<攻>に同一化して、<受>を犯す行為的な快感に同調しながら、<受>の性的様態を眺める楽しみを味わう。そして同時に語りの視点から<受>にも同一化し、<受>の体現する女性的な性的快感に感応する。つまり<攻>になって<受>を犯しながら、女性の性的快楽の回路に直結する<受>の性的快感を味わう、という仕組みだ。

もちろんここでいう「読者」とは女性たる「やおい少女」(もはや少女とはいいかねる人々も多くなったろうが)たちである。女性は「性の政治学」的に「性的客体」たらしめられている。端的にいうと、男性は視覚的に女性の裸をみればそれで興奮するわけで、客体化(あるいは「モノ化」)されており、これは社会的コンテクスト(つまり、エロ・メディアのあり方)からも明らかである。では女性はどうかというと、別に男性の裸を見ても興奮するわけではない。これまたメディアのあり方から明らかである。エロ・メディアを愉しむとき、男性は「性的主体」として、メディアの中の男性(たとえば作中人物であり、カメラであり、男優である)と視線を共有し、メディアの中の「性的客体」としての女性を見る(ないし、愉しむ)。しかし、女性の側にこうしたメディアは存在していない。愛のレヴェルで言うならハーレクインが該当するが、しかしなお一対一の対等的愛のあり方を描きつつも、なお女性は「性的客体」を脱し切れていない。そこで「やおい小説」だ、というのが本書のポイントである。

著者はテクスト分析によって、<受>が徹底的にジェンダー的女性性を付与されて描写されていることを明らかにしている。従来のやおい小説論では、ここで読者は<受>のジェンター的女性性と自らを同一化させて、つまりハーレクインにおけるヒロインのような立場になって読んでいたのだ、と説明されていた。著者は、そうではなく、読者は<攻>の視点をもち「性的主体」として、男を「犯す」立場に立つのだ、という。セックスシーンにおける<攻>の性器描写のいちじるしい不足、あるいは<攻>側の過度のジェンダー的男性性の強調がないことをその傍証としている。読者が同一化するためには、体毛や性器を描写し、<攻>が下卑・粗野な「男性」となることは忌避しなけれなならない、というのだ。こうして女性たる読者が「性的主体」として、物語の中の「性的客体」たる<受>を愛する、という構図ができあがる。これが上記引用の前段の意味である。

次に後段である。以上のように読者は「やおい小説」において「性的主体」を獲得する。しかし社会的コンテクストによって、女性は「性的客体」としてのあり方が、身体化されるほどになってしまっている、具体的に言ってしまえば「抱かれる」という客体的あり方が快感に直結させられてしまっている。たとえば男に抱かれている、いや抱かれていさえしなくても、女性が女性の裸に興奮しうるのはこのせいだ、という。こうして読者は<受>にも同一化してゆくのである。だからこそ<攻>も男性でなければならないのだ。そうでなければ、別に「性的主体」たる女性が、「性的客体」としての男性を犯しても構わないはずだからである。著者はこれにも傍証を加えている。読者たる女性の「性的客体」性の身体化は「性的主体」の象徴のあり方にまで及んでおり、端的に「性的主体」とは性器を「挿入する」側のことでなければならない。したがって<攻>は「挿入しうる」男性でなければ、読者も「性的主体」を獲得できないのだ、と言っているのだ。

こうして二重に同一化しうるエロ・メディアとしての機能が「やおい小説」の革新性たりえたのだ、というのが著者の主張なのである。ゆえにセックス・シーンのみに特化するような男性用エロ小説とは違ったロマンス性も必要となり、キャラ立ちが必要となるのである。きわめて説得的であり、構造的にも面白い。上記のような抽象的議論も逐一テクストが引いて分析をはじめており、具体性にも富む(ついでにいえば著者が実例として用いるのは、九十年代後半のやおい小説であり、この時期のほとんどのやおい小説を私が読んでいたために説得力が増している可能性もある)。

だが、問題点がないわけではない。たとえば、過度の男性性を表す体毛などを避ける点について、これを伝統日本の理想的男性像の影響であり、西洋的マッチョ男性とはならないのだ、として春画を出すのだが、やや議論が飛躍的である。たしかに女性における理想的男性像は文化に影響されるし、その歴史的心性がやおい小説に影響しているという指摘も、私は支持するが、春画の分析だけが出てくるのはあまりに唐突の感をまぬがれない。歴史的分析にはまた別の手法が必要である。また、第二章で統計的分析を試みた部分もあるが、これは成功しているとは言い難い。本書の実例を少し見てみればわかるが、統計的誤差に過ぎないような点も論じてしまっている。人文研究者にとっては数値的処理への誘惑は常に存在するが、相当に禁欲的でないと足をすくわれる。だがこれら二点以上に問題なのは、本書の議論の「核」である「性的主体」「性的客体」の議論のほとんどを上野千鶴子『発情装置 エロスのシナリオ』に負っていることである。上野の議論が『発情装置』においてはかなりオーソドックスで広く認めうるものだということは私も認識しているが、やはり一書に拠っているという印象は好ましいものではないだろう。

これらの瑕疵にもかかわらず、本書はきわめて斬新な視点を提示しており、「やおい小説」を考える上で貴重な論点が数多く含まれており、高く評価してよい論文であると考えて良いものだろう。九十年代後半という時代コンテクストのもと社会的存在感をました「やおい小説」が作者・読者の加齢や時代状況の変化の中でどのように変化してゆくのかが、今後の研究課題として共有されることになるのは間違いないように思われる。

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