セクハラ本。著者は東京都の労働相談に長年携わった人。本書はその中のエピソードを紹介して、セクハラ問題を「女性問題」の枠ではなく男性問題として捉えなおす試みを行うものである。事例とそれを読み解く「第2章 男たちのエクスキューズ」が全体の半分を占める。
男たちは、私から見ればほとんどあり得ないようなDQNっぷりを発揮する。たとえば「あれは同意だった」というエクスキューズがよく登場するが、これは女性側の本気の抵抗をも「女性はものをはっきり言わず、気を引くためにいやがってみせるもの」という本質主義的蔑視感が背景にあるという。たしかに読み進めば読み進むほど、人としての存在以前に女性であることをまず持ってきてしまい、その視線で女性を見る男性のあり方が浮き上がってくる。
ことの背景には、男性の性的逸脱・放埒に寛容な社会の存在と、その寛容性の後退があったことが指摘される。すなわちセクハラは例によって社会問題化しただけであって、存在そのものが急増したわけではないということである。おそらくその通りであろう。しかし、見るところ、弱まったとはいえ、いまだに社会は男性の性的逸脱に寛容である。たとえば酒席のあとの二次会に上司が「フーゾクにいこう」などと言いだし、そこで反対した部下を「空気が読めないやつ」として扱うなどの事例は、私も時に友人から聞くことがある。「浮気は男の甲斐性」などとうそぶく男に、これが二重のセクハラとなっていることなど理解できないだろう。部下の男性へのセクハラであると同時に、「空気」なる放埒さを当然とする思考自体が、職場に対するハラスメントであるのだ。
ジェンダーフリーは急進的フェミニズム同様、非常に嫌われる言葉である。しかし、本書にあらわれる男性たちの行動の前提となる、社会的慣行およびその解釈の是正と考えるならば、十分頷けるものである。男女共同参画を考える際、どうしても男性中心社会への女性の進出という点からばかり論じられ、そして、名簿の読み上げ順だとかそういう形式面ばかりがやりだまにあげられてきた。だが、もう一方にも本質があることを忘れてはならない。すなわち女性中心とされてきた世界への男性の参画である。いまだ、主夫としてのあり方をまじめに希求する男性は誤解を受けている。さらに男性社会へ進出した女性からもあざけりを受ける。これもまたセクハラに近い思考の視線にもとづくものだ。ジェンダーフリー概念は「男性的生業」の女性への開放を意味するのではない。「女性的生業」の男性への開放もまた意味する。
話が逸れた。男性の性的逸脱・放埒に寛容な社会がセクハラの蔓延を生んだのは事実だが、一方でそもそも男性が性的逸脱・放埒に走りやすいのかどうか、という点は議論が必要である。街を歩いていて目をひく女性が歩いていて、チラリとそちらに目を走らせる。ほかの男性がどうかは知らないが、私はそのような経験がある。そしてこれが性的なものではないか、といわれると絶対的に否定できるとはいえない。このような視線を向けてしまうような性向があるいは男性全般にあるかもしれない(ないかもしれないが)。そんなことがあると、不愉快な気分に陥り、自分のいやらしさに嫌悪感を感じるのだ。
著者が言うに、セクハラ男は「男たちの逸脱は理性では押さえられない、説明不能な本能的なものとしてあらかじめ思考停止されてしまう。そうした前提で、『それは許されるはずだ』という甘えた主張が『それは仕方がない』にな」るというのだ。その通りだろう。私が思うに前提は正しい。セクハラをするしないの分岐点は、その前提を承けて仕方がないから許されると思うか、それほどどうしようもないのだから、さらに自分を抑えようという努力をするかの点にあると思うのだ。そして同時に時に自己点検すること、自らの言動が、他者から見てどのように見えたかという共感性をチェックするのだ。これはセクハラに限らないが、いずれハラスメントは必ず共感性の欠如から発生する。「私はセクハラはしない」という安心は陥穽にでさえあるかもしれないのだ。