斎藤純男『日本語音声学入門』

人間の発声器官の構造というのは基本的に共通で、各言語それぞれの発音を経験的に学ぶというのは、どうにも効率が悪い。音声学とは、各言語共通の音声について理解する学問であり、本書は調音音声学に重点をおいた音声学の入門書である。

音声学を学ぶことで、各言語での発音記号がどのようなものであれ、その音が理論的にどのように発声できるかはわかる。本書の特質は、日本語の音声を特に重視し、音声学的に記述される音声が、どのような音であるかを可能な限り、日本語の音声によって説明している点にある。

日本語の子音はk, s, t, n, m, y, r, wしかないような錯覚があるが、本当はもっと色々な音が含まれている。たとえば、「我を張る」の「が」と「パンが焼けた」の「が」は音声学的には別の音である。このようにして自分が簡単に発することのできる音をしっかり認識し、そこから、舌の位置や摩擦のさせ方を工夫して拡張することによって、発音の世界が広がる。そうして、音声学で共通に用いられる国際音標字母(IPA)を学ぶことができるのである。多言語を学ばなければいけない人は、いっそのこと音声学から入ったほうが、発音関連は楽かもしれないと思う。

フェルドウスィー(岡田恵美子訳)『王書』

イラン人なら誰でも知っている『王書』の抄訳。王書は神話部、英雄部、歴史部の三部に大まかに分かれる。そのうち本書は神話、英雄物語を収める。同様のものに東洋文庫の黒柳訳があるが、こちらはさらに端折ってあり、手軽だ。まぁまぁ面白いし、ペルシア語は美しいものや凛々しいものを何にたとえるかとか、そういうところを知ることができる。古典として読んでおいてよいだろう。難点はもとが叙事詩であるのに韻文的味わいがほとんどないということである。しかし歴史部を誰か訳してくれないか、と思う。

酒井啓子『イラクとアメリカ』

推薦版。現代イラク史をまとめた一冊。酒井啓子氏は、世界でも数少ない「イラク」という国家の専門家の一人である。ジョージ・W・ブッシュの合衆国は「対テロ戦争」の目標を、アフガニスタンの次はイラクに定めた。このことによって、我々はアメリカ対イラクの図式の本質を、アメリカ対イスラームという印象を抱いてしまいがちだが、これは完全に誤った見方である。サッダーム・フサインのバアス党政権は湾岸戦争前はイスラーム復興運動を弾圧してきた経緯があるのだ。著者は、むしろこのような二元論的なイメージを形成し、アメリカという「敵」の対局に自らを擬すことで権力を保持しているとするところに本質を見る。以前にもフセインは世界を相手に「フセインかソ連か」、「フセインかイランか」という問いかけを発し、アメリカはフセインをとってきた。そしていま、「アメリカかフセインか」という問いかけをアラブ世界に発しているのだと指摘する。

フセインを支持しない限り、それはアメリカの味方をすることになるというこの理屈は、見かけよりも強力である。現実的に妥当するかどうかはともかくとして、人びとの目にはアメリカはイスラエルに見えるし、そのイスラエルはパレスチナで果てることのない戦争の再生産を続けているのである。これはアメリカのジレンマそのものであり、合衆国の同盟国日本の国民として我々が知っておいて良いことの一つである。

なお私見をまじえれば、勢力均衡の点から考えて、アメリカのイラン敵視が状況をとんでもなく複雑なものとしているのは明かである。湾岸戦争しかり、アフガニスタンしかり、イラクしかり、そしていまパキスタンしかり。アメリカがイランを失ったつけはあまりにも大きかった。すくなくともイランが「存在しない」かのように扱っていることが、状況を悪くしている。最低限、イランという国家のプレゼンスは認めるべきであろう。

田中宏巳『BC級戦犯』

特選版。私たちの第二次世界大戦へのまなざしは、冷戦構造のなかで、あまりに観念的なものに固定されたように見える。その一つの象徴が東京裁判であった。それは国民の真摯な反省の賜物でもあった。しかし、こと歴史的政治的な視角から言えば、失ったものは非常に多い。

その第一は、はたして第二次世界大戦をめぐる日本の政治とは何だったのか、そして日本は何に失敗したか、である。情緒的で、観念的な反省の材料がA級戦犯に析出しているとしたら、第二次世界大戦をめぐる現実の歴史が凝縮されたのが、BC級戦犯であったことを本書は明らかにしている。

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篠原千絵『天は赤い河のほとり』全28巻

最近わたしが読んで気に入った漫画に、篠原千絵『(そら)は赤い河のほとり』全28巻, 小学館(フラワ-コミックス), 1995-2002.がある。現代日本の少女が、ヒッタイトの皇妃の魔術でヒッタイト世界に引きずり込まれてしまう。皇妃は我が子である末の皇子を次期皇帝とする生贄をもとめて魔術をおこなったのであった。しかし引き込まれた女の子ユーリは皇妃の敵である第三皇子と恋をして、皇妃の陰謀とそれにまつわる政治の舞台で戦い、そして時に冒険をし、やがて皇子と結婚し新皇妃として帝国に君臨してゆく。基本的には、少女の成長物語で、王子様物語なので、べたべたといえば、そのとおりである。

一番頻繁に指摘されることに『王家の紋章』との類似がある。確かに物語のきっかけは、ほとんど同様だし、王子様物語の点も、現代の知識をつかって古代(というより考古学年代)を生き延びるという点も同様である。であるが、本質的な違いがある。それはストーリーの動因だ。『王家の紋章』は、さまざまな「王子さま」が登場し、そのうえでひたすら横恋慕と陰謀と誘拐だけが永遠に連なっている。「王子さま」たちは政治も軍事も全て無視してでも決してキャロルをあきらめることはない。その永遠が、あまりに単調なのだ。それに対して、『天は赤い河のほとり』では、すこしずつ環境が動く。『天は赤い河のほとり』の王子さまたちは、なし得る政策合理性と己の感情の中を悩みつつ進んでゆく。なによりもラムセスはユーリを「あきらめた」。『天は赤い河のほとり』には若干のリアリティがまだ残存しているのだ。その点で鉄器や馬といったものにかかわる研究をトレースしているように見えるのは、好ましい点だ。おしむらくは、騎乗している絵に「鐙」が描かれていること。鐙の導入によって、軍事力としての馬の価値は四倍増に近い。そしてこの時代、鐙はまだ発見されていないであろう。馬に注意を払った作者であっただけに、残念である。とおもったが、よく考えたらユーリが鐙に思い至らないのはおかしい。私は経験があるが裸馬に乗るのは本当につらい。ここは欠点である。

一方で『天は赤い河のほとり』には、『王家の紋章』に見られる現代と過去の相互通行性がない。これがあれば巻数倍増でよりおもしろくなっていただろうに、と私には悔やまれてならない。が、それはそれでよいのだろう。解決のつけようのない問題ではあるのだから。

池内恵『現代アラブの社会思想』

『現代アラブの社会思想』は9.11後の出版。本書の概要は次のようになる。社会思想史的には、アラブの「現代」は1967年、第三次中東戦争の敗北に始まるという。ここでナセリズム、アラブ社会主義は退潮し、かわってイスラーム主義と急進左翼の勢力が強くなったと言う。しかし急進左翼は、その理想像とした中国文化大革命の真相が明らかになることをはじめ全世界大での左翼の敗退をきっかけに勢力を失った。一方のイスラーム主義も理想像を鼓吹するのみで、その行動は次々と先鋭化するにもかかわらず、現実的な対策を具体化することはできず、結局イスラエルを倒すことはできなかった。

ここに、現世での理想郷の建設をあきらめ、来世に求める終末思想が登場する。そして急進左翼の倒すべき目標アメリカ=イスラエル独占資本主義帝国主義枢軸とイスラーム主義のジハードの対象であるアメリカ=イスラエルは、陰謀をたくらむ偽救世主にまで昇華するのだ、とのこと。

著者によると、オカルト的な色合いを帯びた本もサブカルチャーではなく、立派な著作として受け取られる風土がすでにエジプトには形成されているという。これを一つの社会誌として受け入れるならば、それはエジプトであるがゆえなのか、あるいはアラブ全般なのか。そして非アラブのイスラーム世界ではどのようにこのような傾向が受け取られるのだろうか。

私市正年『イスラム聖者』

『イスラム聖者』は確かにまともな本なのだが、いまいちおもしろくない。これは私がそもそもあまり興味がないということもある。私市さんの聖者へのアプローチは、人類学的手法というよりは、あくまで歴史学的手法をとっており、聖者伝などに依拠する。しかし、聖者伝史料自体が、マグリブそれもモロッコなどの西部に分布が偏っており、そこに現れる聖者像がどこまで一般化出来るか疑問もある。本書ではあくまで時代的・地域的対象を絞っていることをきちんと記述してはあるのだが、読み物としてはおもしろくなくしているとは言えるだろう。これはマグリブ関係の書物一般に言えるのだが、社会誌や人類学研究と政治史の関わりがいまいち見えてこないことが多い。政治的変動と社会構造の観察はヤヌスの両面をなすとおもうのだが。

なお、そもそも「聖者」というのがアラビア語の一般名詞として考えるべきではない、というのは注意を要する。地域ごとに「聖者」の呼ばれ方はことなっており、その性格も異なる。したがって「聖者」とはキリスト教における聖者とは全く異なり、テクニカル・タームなのである。

大塚和夫, 小杉泰, 小松久雄, 東長靖, 羽田正, 山内昌之編『岩波イスラーム辞典』

岩波書店から大塚和夫・小杉泰・小松久雄・東長靖・羽田正・山内昌之編集『岩波イスラーム辞典』が刊行された。平凡社『イスラム事典』から20年。現在、イスラーム研究の最先端を走る諸氏の編集になるもので、さっそく手にいれた。以下、一読してみての感想。

  • ウリの一つであるが、たしかに近現代に強い。現代の組織・政党、人名はかなり綿密にあげてある。特に現代政治は「イスラム事典」では刊行年から当然湾岸戦争さえも含まれないわけで、我々はこの分野にかかわる事典をはじめて手にしたといってよい。
  • 概念的な項目が非常に充実している。思想史や法学・モラルエコノミーの関連項目は、現代とのつながりも説明しており、「イスラム事典」と比べても大変詳しい。
  • 非アラブ圏への目の配り方が細やかである。特に中央アジアは非常に充実している。非イスラーム世界におけるムスリムについての記事がある。
  • 意外に建築史・美術史、特に陶器とモスク建築に関して詳しい。
  • 表記・転写法が比較的厳密である。
  • 前近代の歴史的な事件についての項目は、かなり端折ってある感じがする。
  • 各記事末尾の参照項目や索引については不備が目立つ。関連項目でも違う執筆者の場合、参照が設定されていないことがあるし、巻末索引は項目一覧にすこし足したもの、という感じである。よって「読む」にはあまり向いていない。
  • 高い。需要を考えればこの程度かもしれないが、おなじ岩波の「現代中国事典」が1457ページで6600円であることを考えると、1257ページで7500円は少々考えものである。装丁はきれいだが。

総じて、もっておいて損はない辞典という感じである。ただし短所もないわけではないとおもうので「イスラム事典」と併せて参照(特に歴史の分野での工具としての使い勝手からいえば、少々ものたりない)というスタイルが推奨される。

「イスラム事典」がイスラーム史の事典としての面が顕著であったとすれば、「岩波イスラーム辞典」は地域研究としての側面が強いといってよいだろう。と書いた端からメールが来て、平凡社「イスラム事典」の全面増補改訂版「新イスラム事典」が3月11日に発売とのこと。

『美少女たちのジハード』

なんとなく雑誌コーナーを見ていたら竹書房から『美少女たちのジハード』なるものが出て結構あまっていた(12月発刊)。まずいだろ、とおもって見てみた ら、解説文は意外とまともだし、イスラーム建築の写真もなかなか美しい。しかしそうすると逆にグラビアページはほとんど邪魔。はっきりいってまとまってい ない。だいたいウィグル族とかイスラーム世界の周縁部の女の子がほとんど。その意味からいえばやはりムスリマが写真に写りたがるという解釈はしてはいけな いし、わかってジハードという言葉を使ったとは思えない。