劉傑『中国人の歴史観』

よく中国外交の「わからなさ」が話題になる。曰く融通無碍にもかかわらず、「自主独立・主権尊重」の基本を貫き……云々。本書はこれらの点は決して社会主義のイデオロギーだけに帰すことのできるものではなく、また「中華思想」や「近代国民国家」のみに帰すことができるものでもなく、これらの複雑に絡み合った結果であるとする。

特に外交の点では、1世紀半にもわたる「弱い中国」の記憶が今も生きていることを忘れてはならないという。なぜなら時に用いられる「以夷制夷」政策はむしろ小国外交の基本でもあるからだ。この点が建国以来の共和国の主是であるナショナリズムに反映していると説く筆者の目は鋭い。文春新書であるからといって右側の中国おとしめ的言説ではないので注意!

天児慧『中華人民共和国史』

特選版.最近の概説書ではもっともすぐれている。中国共産党をマスタープランが確立した「Leninistの党」としてみるわけではなく、中国をとりまく政治の中できわめてダイナミックに展開した執政党として見る現実的な書と言える。よく1949年の中華人民共和国成立をもって一画期と見てしまいがちだが、天児の『現代中国』で示された革命、近代化、ナショナリズム、International Impact、伝統という5つのファクターを設定して中共の政策を見て行くので、中国革命の中国的部分と革命的部分を連節的に説明することを得ている。毛澤東が革命とナショナリズムなら鄧小平は近代化とナショナリズムである。この視座をもって現代中国政治をみると、そのダイナミックな変容の未来もある程度説得的になるのではないだろうか?

米倉誠一郎『経営革命の構造』

産業革命期イギリス、成長期アメリカ、高度成長期日本の三つの経営革命のエピソードをつづる。そこには必ず個人の力によるイノベーションがあった。そして革命が起きる時と場所には、ある産業に対して必要ないくつかの技術の間に進度の不均衡が生じていたという。つまり、繊維産業でつむぎが早くても、織りが遅ければ、織りのスピードがボトルネックとなりつむぎのスピードを相殺してしまう。だからそこで織りも速くしようとする力学が働くというものだ。これをイノベーションの要因として考察してゆく。

経営のイノベーションにかかわる概説的エピソード集として考えを整理するのに有用。

多木浩二『戦争論』

歴史哲学の観点から1900年代の戦争を振り返る。本書で提示される重要な視点は、クラウゼヴィッツの有名な「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」の否定である。すでにこれはナポレオン戦争のころの発想であり、近代の戦争とは政治以前に発生しており、むしろ政治こそが戦争を「幻想の目的=仮想未来」として動いてきたのではないか、という論だ。ここから推論して著者はいう。ユーゴでのNATOの空爆などでは「戦争そのものの発生する条件が未知のものを含んでいるように思える」と。

もうまもなく21世紀を迎える我々にとってはきわめて現実的に恐ろしいことである。もし、戦争が起こってしまったら私たちは「サラエヴォ・ノート」の著者たちのようにたくみな権力回避の言説をとって戦争を脱目的化する以外にないのであろうか?

豊島修『死の国・熊野―日本人の聖地信仰』

熊野信仰の歴史についての概説。

熊野には、海の宗教と山の宗教が古代より存在した。それが垂迹論などによって体系化されて中世をむかえてゆく聖地熊野の変容を描く。

基本的に妥当なのだが、論点があまりにも多岐に渡り構成が乱雑。文章が少々こなれていないので読むのに苦労するのが残念。

纐纈厚『侵略戦争―歴史事実と歴史認識』

本書はいわゆる「自由主義史観」の誤りを歴史学の研究者の立場から論難したものである。

当然、若干「左」のにおいはする。沖縄戦における軍中央の無為無策、住民を持って楯とする戦略を批判するのは正しい。だが一方で「右」の人々によく引用される太田実少将の「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ後世格別ノ御高配ヲ」について一言も触れないのは誤っている気がする。

とにかくアジア・太平洋戦史にかかわる言説を整理するには有用であろう。

田村明『まちづくりの実践』

地域とはなにか? 人がそこに住み、そこで暮らし、さらにだれかが訪れて「感じうる」地域とはなにか?

「まちづくり」とは住の観点から身近なひととひととの関わり、ひととモノとの関わり、ひとと自然との関わりをデザインすることである。これからのネットワーク化する社会のツールとしてインターネットが注目されている。であればこそ、実物としての上記の関わりは密接な、より意味のある貴重なものとなるであろう。その観点から、まちは作られて行かねばならない。小さな出会い、小さな感動を愛することはやがて「まちづくり」へと繋がっていく。本来の「都市」とはネットワークの結節点であった。それが単なる集住の地と化してしまった。いま、また人は地域を活性化させねばならない。

これは経済学的にも有利な視覚だ。たとえば教育の面では、教員に頼りきりにせず地域の専門家(たとえばITに強い人など)を協働させうるし、そもそも「出会い」がモノを生み出す出発点であることを再確認できるだろう。

田村はこれまでも『都市ヨコハマをつくる』や『江戸東京まちづくり物語』などの名著を生みだしてきた。本書は上記の重要な視点を静かに説く。ライフスタイルの指針として手元におきたい好著。

玉木正之『スポーツとは何か?』

著者はスポーツを文化として捉える。ところが日本では文化としてのスポーツが成長していないのだ,という.

たとえばオリンピックでの「アマチュアリズム」とは労働者を排除する差別的な発想に根ざしているわけだが,日本でこの「アマチュアリズム」が高い評価を得るのは,スポーツを「体育」として捉える日本的文化と合致するためであり,逆に言えば,スポーツをスポーツとして「楽しみ遊ぶ」感覚が不在であるためとするのだ.

なぜか.近代日本では地域社会が育たなかったため、運動会という例外的に発達したレクリエーションとしてのスポーツをのぞいて、地域で楽しむスポーツが発達しなかった.そして「体育」としての面ばかりが戦前に強調され、逆に戦後ではこれを否定され,その結果,現在ある単なる企業文化としてのスポーツが生まれてしまったのだと著者は説く。

企業スポーツはその利益と連動しており、甲子園などいびつで不可解なスポーツジャーナリズムとの複合体を生みだし、勝ちと負けだけを気にする不可解な観客を作りだし、「楽しむ」観点のスポーツが不在になっているという。

またスポーツナショナリズムに関しても「スポーツの観客は、自分に近しいスポーツマンの活躍を願うのが自然な感情である。親類、縁者、同郷、同窓、同じ国、同じ民族、同じ宗教……。しかし、国や民族を越えて素晴らしいスポーツマンを讃えるのもまた、観客の自然な感情であることを忘れてはならない」として、人間をより善良なものとして捉え、スポーツナショナリズムに関してもむしろ「90分間のナショナリズム」としてこれを吹き出させてしまう方がよいとする。むしろ日本人があまりに「勝った、負けた」で評価する傾向が強いので日本でそれに応じてスポーツナショナリズム批判も強いのではないだろうか。

プロをプロとして正当に評価すること、ジャーナリズムはその本質を守り、企業として利益を追求する姿勢をスポーツにまで持ち込むのは誤っているという指摘はおそらく正しい。本書は、地域社会の問題や、ジャーナリズム、国家などあらゆるネットワークを「スポーツ」の観点から再構成した書と言える。スポーツに興味のない人は、あるいはむしろ読んでおくべき書物であるかも知れない。スポーツとはなにか?この問いかけなくして、「嫌い」は許されない。

根津由喜夫『ビザンツ―幻影の世界帝国』

本書はビザンツ史の概説ではなく、コムネノス朝のマヌエルI世コムネノス(在位1143-1180)の時代史である。その記述はコンスタンティノープルの都市社会、宮廷の貴族社会、帝国の国家戦略に及ぶ。

コムネノス朝はバシレイオスII世帝死後の混乱した帝国を再び「地域大国」として復活させた王朝、そして、テマの独立自営農兵民に基づく皇帝独裁官僚制国家から家産制貴族集団指導体制国家へと帝国を変質させた王朝と考えられている。コムネノス朝は、アレクシオスI世帝、ヨハネスII世帝のもとで繁栄した。しかしマヌエルII世帝は、ユスティニアノス帝の「世界帝国」をめざして、無謀な遠征を繰り返す。マヌエル帝は、先帝たちの残した遺産を食い尽くし、第四次十字軍にコンスタンティノープルを陥落させるまでに帝国を疲労させた皇帝として記憶されている。

著者はこの見方に一石を投じる。ビザンツが昔日の世界帝国ではない以上、比較優位の態勢を維持せざるを得ないのが現実であった。マヌエルは「幻想の世界帝国」という政治的虚構をよく知って、その効果を最大限にすることを目指しており、それは合理的判断であったと著者は指摘している。マヌエル帝の世界戦略は傍目にも複雑であり、宮廷はコスモポリタンな雰囲気に包まれていたという。

彼の後のビザンツの衰退はむしろタイミングの問題であった。そのタイミングとは「制夷以是夷」戦略が一部で破綻を来たし、ビザンツそのものが戦線の表に出ざるをえないことになってしまったことである。原因は、分裂を策してきた夷の一部(たとえばルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン)があまりにも強大になってしまい、制させるための夷が不在になってしまったことであった。そして家産制国家の宿命といえる貴族集団の量的増大によって家長としての皇帝の目が随所に届かなくなってしまったことも重なった。

本書は、これまで事実無根という点から排除されていた文学作品も当時の心性を知るための社会史資料として用いている。この点にも柔軟な歴史家の目が注がれており、好感できる。

宮田律『中央アジア資源戦略――石油・天然ガスをめぐる「地経学」』

いわゆる時事物である。しかしこれまで旧ソ連中央アジアについての日本語による概説書は2~3冊程度しかなく、本書の刊行は大いに歓迎できる。内容は天然資源のパイプラインに絡む各国の思惑を軸として政治、経済を論じている。しかしながら書き方はジャーナリスティックであり参考文献は示されないのがおおいに残念に感じる。

私たちはどうしてもいっしょくたにごちゃ混ぜにしてしまうが、中央アジアの国々はそれぞれ多様である。天然ガスに豊富なトルクメニスタン、石油に豊富なカザフスタン、アゼルバイジャン、人口にものをいわせうるウズベキスタン、もっとも民主制の発達しているキルギスなど……。

ここから資源戦略への目もそれぞれ変わらざるをえない。地域大国としてのロシア、トルコ、イラン、中国の思惑、さらにアメリカ、EUの思惑。これが絡んでカスピ海を始め複雑な国際政治のファクターが浮かび上がってくる。トルクメニスタンはアフガニスタンを通じてパキスタンまでパイプラインを引きたい。一方ロシアはこれを阻止したい。そこで内戦下のタジキスタン、アフガニスタンにさらなる複雑な構図が作られる。アメリカはイランを通したくないし、EUにふられつつあるトルコはアメリカ・イスラエルへより顔を向けることになり、自国へエネルギーを引き込みたい。対してロシア=イラン=中国の同盟が結成される……。これらを優しく解き明かしてくれる。

小林章夫『イギリス名宰相物語』

有名どころのイギリス歴代首相を取り上げ、特にその個人的資質や人間性を物語風にさらっと流してくれる。時に断片的におもしろい知識も登場する。たとえばディズレーリ。ユダヤ系だとの知識はあったものの、その姓の綴り(D’Israeli)からあっさりとわかることなどである。ウォルポール、大小ピット、ウェリントン公、ディズレイリ、グラッドストーン、ロイド・ジョージ、チャーチルの8人の人間像を語る。

著者の文章は軽妙で、読みやすい。

伊佐山芳郎『現代たばこ戦争』

一通りたばこの毒性と嫌煙権訴訟をしるにはもってこい。ただし嫌煙原理主義的な部分もあるので、喫煙者の方は度量の広い人以外には勧めない。

依存症があるたばこというものを売るためには、いかに20代で定着させるかが勝負であり、煙草会社は20代には味よりもイメージが有効であると熟知してその販売戦略を編み出している、という点はまったくもって納得させられる物がある。たとえば、「たばこは20歳になってから」の文句はむしろ20歳以上のステータスを強調しており、憧れとしてのたばこを作り出している、という指摘である。

ただ俯瞰すると嫌煙権運動はまるでアヘン戦争前の弛禁論、厳禁論の色合いを帯びてきているように思う。本書が、現在以降の見通しを示してくれないのが残念である。