中華人民共和国はさまざまな面を見せてきている。たとえば国内経済に対しては発展途上国の顔、そして外に向かっては「富強」を志向し、一部実現したと誇る国家の顔である。それを著者は「中国の世界」と「世界の中国」という二つの軸を導入し、現況を分析している。この二面の融合あるいは表裏が著しく強気にみえつつ実は非常にリアリスティックな政治を行っている中国の鍵である、としている。
そして21世紀への中国の道筋、これを決めるのはいまや「経済」の世界から「政治」の世界に移りつつある、と主張する。
中華人民共和国はさまざまな面を見せてきている。たとえば国内経済に対しては発展途上国の顔、そして外に向かっては「富強」を志向し、一部実現したと誇る国家の顔である。それを著者は「中国の世界」と「世界の中国」という二つの軸を導入し、現況を分析している。この二面の融合あるいは表裏が著しく強気にみえつつ実は非常にリアリスティックな政治を行っている中国の鍵である、としている。
そして21世紀への中国の道筋、これを決めるのはいまや「経済」の世界から「政治」の世界に移りつつある、と主張する。
著者による1997年から1999年までさまざまな雑誌に掲載された歴史とイスラームを絡めたエッセイを編集した物。ジャーナリスティックなものも歴史哲学的なものもあり、読み物としてはおもしろい。特に「丸山眞男の読んだ『神皇正統記』」が特筆。親房が政治哲学をもち、正しい治国を行うためのノブレス・オブリージュの観念をもっていたことを丸山がきちんと見抜き、単に復古の徒とは見ていないことを教えてくれる。現在の朝日的知識人との違いの所以である。
そしてまた本書を貫く一つの意識は、ユートピアを求め、それを実現しようとし、平等と人間中心の世界を作ろうとすることが、大きな犯罪につながってしまったことへの回顧である。引用されるギリシア格言「悲劇が明白な悪の勝利にあるのではなく、善の悪用にある」は、非常に重要な示唆と深い納得を与えてくれる。
歴史的に検討して上では「衰退していない」というのが著者の主張である。「日本人のしつけが衰退した」という議論は、一昔前の「よい」記憶を、現在のマスコミを騒がせる「もっとも凶悪な犯罪」と比較して、昔はよかったという結論を出そうとするノスタルジックで反動的な動きにすぎない、と著者は喝破する。すくなくとも総体としての犯罪が減少しているのは事実である。
また、戦前の村の社会はしつけなど眼中になく単に家産労働を手伝えば、それでよかったのだ。むしろ都市上流のみが、ある程度教育できる家族であっただけで、それ以外、特に地方ではそうではなかった。地方間格差を考える必要がある、という主張もある。
どちらにしろ「教育する家族」は中流層が学歴貴族願望をもつ近代化の過程において、歴史的必然として現れるものであった。決して社会道徳の向上や低下を単に表すものではないという指摘は重要である。
著者は新左翼にいて、のち右翼に移った人らしい。本書は、刑務所、左右セクト、精神病院、北朝鮮などの各章をたてて、日本人のこころにいかに「天皇」なるものが染みついているか、過激に主張される。「左」もまた分派を統合して大きなうねりを持たせるためには「天皇」に反対することだけが道具となりうる、としている。
私はこのような主張は全く受け入れがたいが、もしかしたらおもしろいと言えば、おもしろいのかもしれず、「朝日的教養」を若干は崩してくれそうな気はするし、「産経的保守」もまたある程度論破してくれる。