南川高志『ローマ五賢帝』

しばらくローマから遠ざかっていた。実は、五賢帝時代の研究者が日本でほとんどいない、ということを知る。非常に意外であった。養子皇帝制というのは妙だと思っていたが、やはり。帝国に関しては没落論の影響か、五賢帝時代以外は暗黒帝国という印象さえある。それを五賢帝時代の実像を描くことで、相対的に他の実像をも見せることになるだろう。

著者は、実は五賢帝時代の基礎をなしたのは、ドミティアヌス帝であったと考える。従来、暴帝と考えるものたちを、色眼鏡をかけることなく、見て行くことを再確認させられる。同時に、ローマ史において、ポロソポグラフィーという手法の重要性を学んだ。

また深読みのしすぎかも知れぬが、目次では第一章が「訪れぬ光-五賢帝時代の始まり」とあるが、章の扉には「訪れぬ光-四賢帝時代の始まり」とある。本文中のネルウァ帝の描き方から考えて、妙にわざとらしい。なぜネルウァが賢帝と呼ばれるに至ったか、説明が求められる。

東長靖『イスラームのとらえ方』

特選版。イスラーム入門の上で最もよくまとまった書である。この薄さに、これだけの内容を込めた著者に敬服である。しかし同時にいつまでイスラーム関連の学者は「啓蒙」をせねばならぬのだろうか、とも思う。遠く井筒俊彦先生にはじまり、今も続くこの流れの重要なファクターが「啓蒙」なのだ。これは学者の歓びなのか、知られぬ悲しみなのか。私には、分かりかねる。できれば高校のうちによんでおきたい書物である。

永田雄三, 羽田正『成熟のイスラーム社会』

本稿は永田雄三/羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15)中央公論社,1998を読んでのエッセイである。本書は、中央公論社の「世界の歴史」新シリーズの中の一冊として出版された。第一部で「東洋の衝撃」以前のオスマン朝を、第二部でサファヴィー朝を扱う。今回のレポートはその中の永田雄三による第一部「暮らしのなかのオスマン帝国」について扱う。

一読して驚くのは、オスマン朝史という世界は、なんと広いのかということである。世界史的には、中央ユーラシア起源のトルコ系遊牧民の役割と打ち立てた三大帝国、一方で、オスマン朝によっておされたヨーロッパのルネッサンス。そして完成された後期イスラーム帝国の華。鈴木董が論じてきた世界に冠たるオスマン帝国官僚制をはじめとする帝国国制、精緻化され史料の大量に残るシャーリア法廷論、権力と民衆が都市を舞台として「アドル」を奪い合う社会性。一方で、民衆たちも「カフヴェ・ハーネ」で政論を形成していたというハーバーマスの公共圏の世界、アレッポやイズミルを中心とする遠隔地貿易の富、18世紀以降の地方の台頭。どこまでも議論がわき出てくる。やはりオスマン帝国は政治的、社会的、経済的に、イスラームの洗練の極み、いきつくところであるのだ、ということを確認した気がした。

そのように広さを感じさせるほどに、さまざまなことに本書は言及する。しかし総花的で読み飽きるようなことはない。それは、おそらくは「オスマン帝国という時代の社会の歴史」を丹念に描写しているからではないだろうか。そう考えると、実は政治史や国制論の比重が意外と軽いことに気づく。清水宏祐が評するように、概説であっても鈴木董『オスマン帝国』という政治史と国制論の良書があり、『オスマン帝国』がカヴァーしきれていない社会の面を、本書は重視しているという見解は正しいように思う。あくまで本書では、帝国政府は社会の一員に過ぎず、オスマン帝国社会が、みずからどのように生きたか、どのようなシステムで統治を作り上げたか、それをイスラーム的にどのように語るか、さらには時代的地域的に隣接する他の社会とどのような関わりがあるのか。そのようなテーマが、わかりやすい事例とともに編み上げられているという印象を受ける。

社会をテーマとしていると考えると、コアになるのは第四章「「オスマンの平和」のもとで暮らす人々」であろう。私には、イズミルといえば永田さんというほどの印象があるのであるが、まさに本領を発揮している。オスマン帝国といえば、「帝都」イスタンブルという強烈な都市があるだけに、その他の都市がかすみがちである。しかし本書ではイスタンブルを例にとって、イスラーム的な都市と都市生活を語り、さらに遠隔地貿易と絡めて、アレッポをも論じている。都市生活者のみではなく、都市に「出入り」するトルコマン族の生き方を論じ、一方で黒海貿易とカッファの復活まで言及している。その叙述の手法は、これほどにバラバラになりがちな議論を、帝国を生きる人々という確固たる軸上に、鮮やかに並べている。この議論があってはじめて、概説書には登場させにくい世界有数のトプカプのコレクションやカラギョズまでも論じることができたのではないだろうか。サライ・アルバムという言葉への直接の言及はないが、オスマン美術が概説書で一章を割かれた意味は大きい。

だがテーマ上、手薄になる分野が現れるのは、避けられない。たとえば、地方財政とカーヌーンの抱き合わせによる地方統治についてはほとんど触れられていない。さらにティマール制までもその議論に絡めると、この分野での議論は、あちらこちらの章にバラバラになってしまって統一的に把握することが難しくなってしまっている。そしてなによりもオスマン帝国統治下のアレッポを除くアラブについての記述が致命的に少ない。これはむしろ次巻で語られることになるが、それでも同時代同社会であることを考えると残念なことである。

私が非常に細かい点で気になったのは、ワクフの運用についての記述(p.121)である。永田氏は、ワクフ制を商工業の発展を阻害したという見方は誤りであるとしている。その理由として、ワクフ対象は修理、改築を行い、賃貸をする柔軟性を備え、イスラーム法で君主の恣意的な収奪から資本の分散を防き、賃貸を通して小規模な資本しか持たないものにも営業の機会を与え流動性を促進したことを挙げている。たしかにそれはワクフの利点である。しかしそれは前述の見方を誤りと断定する理由であり得るだろうか。たしかに資本の分散は防いでいるが、一方で投資が極端なまでに不動産に偏り、技術革新や商業に対する投資を減退させる。これはワクフのデメリットである。そのデメリット解消のために、一般には消滅する財をワクフ財とはできないという原則に反して行われたオスマン朝に特有の現金のワクフ財化があったと思われる。これをウラマーの資本蓄積の点や、ハナフィー学派の柔軟さとのみ関連づける議論はいかがなものかと考える。

だが上記のような細かいことを言い出せるほどに、本書の目は細部に行き届いている。現金ワクフへの言及などはなかなかに概説レヴェルではないと思う。おそらく読者の関心に従って、そのように論点を深めてゆくことができるという点で、すばらしい概説であると言えるように考える。

参考文献

  • 清水宏祐「書評」http://www.asafas.kyoto-u.ac.jp/asia/renkan/library/nagata98.htm,1999
  • 鈴木董『オスマン帝国』講談社(現代新書),1992
  • 永田雄三編『西アジア史II』山川出版社,2002
  • 林佳世子『オスマン帝国の時代』山川出版社(世界史リブレット),1997
  • 山内昌之『近代イスラームの挑戦~世界の歴史20』中央公論社,1996