ジャック・ル=リデー(田口晃, 板橋拓己訳)『中欧論―帝国からEUへ』

「中欧」をめぐる言説史.文学や論説から思想変遷を追うので実際の政策はあまり関係ない.やや高踏的な印象を受けた.クセジュらしいといえばクセジュらしい.

黒羽清隆『太平洋戦争の歴史』

原著はもう20年近く前になるが,改めて読むと非常に良い本である.新史料の発掘で揺れ動く細部にはあまり立ち入らず,確定した事実を歴史として描き出す堅実な手法をとる.文がすばらしい.戦争まわりの書物はどうにもイデオロギー性の強い書物になりがちだが,本書は通史として冷静な視角,しかし広い視角が社会全体に注がれており,信頼に値する.

友清理士『イギリス革命史(上)―オランダ戦争とオレンジ公ウイリアム』

詳細な事件史をナラティヴに.といったコンセプト.『ローマ人の物語』に近い性格で,専門家ではない方が書かれているので,最近の研究動向的には問題がありそうな気もする.

あかぎ出版編『信越本線120年―高崎~軽井沢』

あかぎ出版という地方出版社の刊行した本.わりと今までに見たことのない写真があり,また郷土史的な内容も豊富である.「街道の日本史」の上州と東信州の巻とあわせると興味深い.

深井甚三『越中・能登と北陸街道』

表題の越中・能登の全域と高山盆地以北の飛騨を扱う.本巻では東西の道である北陸街道だけでなく南北の道および水運についてもバランスよく記述されている.本シリーズでは従来ひとまとめにされなかった地域をまとめて扱うことがあるが本書もその一冊である.このような場合,各地域ごとに個別の記述に終始してしまい,統一的な地域を描き出すことに失敗する場合が多い.本巻は実にバランスよく,かつ自然に各地域を往き来しており編集の質が高い.これは富山周辺の1郡を除く加越能がすべて加賀藩領であったことも理由となるかもしれない.飛騨もなおざりにはされておらず,高山が近世を通じ現岐阜県域内最大の人口をほこる都市であった背景が丹念に説明されている.

鄭大均『在日・強制連行の神話』

現在の在日コリアンは日本の強制連行の被害者である,といういつの間にかひろまった言説の虚構性・政治性を指摘する本.文春なので右よりのヒステリックな叫びかと思ったのだが,語り口も堅実冷静で良心的な学究の書物であった.もとより前述の言説は政治的にどうのような立場にある研究者でも今日では否定されている話だが,一般向けに解説したものがあまりなかったのも事実である.上述の言説を信じているひとは一度読んでおいたほうがよい.逆に知っている人にとってはそれほど目新しい話があるわけでもない.

ロバート・ベア(柴田裕之訳)『裏切りの同盟―アメリカとサウジアラビアの危険な友好関係』

CIAの工作管理官だったという人のサウジアラビア=アメリカ同盟の危うさを描く本.もとよりサウジアラビア王族の腐敗とかサウジアラビアの人口増加による社会安定性の低下は中東研究者にとって常識である.本書は石油と武器をめぐるアメリカ政界とサウジアラビアとの金の流れなどを平易に説明しておりその点では啓蒙書的役割を果たしうるだろう.

ただし各所にCIAの検閲による削除部分があったり,著者の記憶に頼った記述があり,信頼度については疑問を呈せざるをえない部分もある.それでもムスリム同胞団に注目し,一方でサウジアラビアのイスラームであるワッハーブ派を重要視し,両者の結節点として自力でイブン・タイミーヤにたどり着いている点は評価できる.学界と現実的政策の前衛たる工作員の結論が符合したことを示している.

本書でもっとも注意すべき点はムスリム同胞団そのものが秘密テロ組織であるかのように描かれていることである.ムスリム同胞団は現在ではきわめて曖昧かつ多様性をもった存在で各国でその様相は異なる.一方で政治的組織があり,テログループにきわめて近い組織もあるが,一方で病院運営や救貧などきわめて社会福祉団体的な役割を果たしている部分もある.ムスリム同胞団はもはや一枚岩で指揮系統が一本化された秘密結社などではない.

訳は平易で実に読みやすい.プロの仕事である.しかしイスラームやアラビア語についてはほとんど注意を払っていない模様で「アッラーの神(「の神」はいらない)」や「サイード・クトゥブ(サイイド・クトゥブ)」など許容しがたい誤記も散見される.長音関連のカタカナ音訳全般(フランス語も間違っている)にも信頼がおけないのは残念である.