カテゴリー: 本
井筒俊彦『神秘哲学』(井筒俊彦著作集1)
丹羽隆子『はじめてのギリシア悲劇』
齋藤健『転落の歴史に何をみるか』
深見じゅん『悪女』全36巻
深見じゅん『むぅぶ』全16巻
石弘光『大学はどこへ行く』
小沢真理『世界でいちばん優しい音楽』全16巻
進藤榮一『現代国際関係学―歴史・思想・理論』
栗本薫『ヤーンの時の時』(グイン・サーガ87)
原田種成『私の漢文講義』
本書出版以前に亡くなった碩学の論集。半分くらいは、漢文教育の重要性を訴えた文だが、もう半分の実質的な「漢文講義」は実に簡潔で要を得ており、かつ教養になる。高校の教科書・参考書でない漢文の本はなかなかないので、悪くない。
ダワー, ジョン, (三浦陽一, 高杉忠明, 田代泰子訳)『敗北を抱きしめて―第二次大戦後の日本人』全2巻
昨年のいまごろ話題になっていた書物だが、ようやく読んだ。「草の根のファシズム」の時代がどのように「戦後」につながるかを占領期に絞って、社会史を中心に描いた力作。表題の「抱きしめて」がかなり象徴的である。
特に敗戦後の占領前期の全ての始まりといえるような、空虚でありながら開放感に満ち、それでいて生活上は最悪な時期の詳細な記述が重要である。敗北というフォーマットを日本も、そして占領軍・アメリカも「抱きしめ」そして二十世紀後半の日本の歴史が始まったのである。
板垣雄三編『「対テロ戦争」とイスラム世界』
推薦版。2002年9月11日以降、雨後の竹の子のようにあらわれた書物の中では、もっとも良質なものの一つ。思想的な説明や、時事的な説明はあまりに多く加えられているが、本書はそれぞれこの地域の専門家が執筆しており、イスラーム世界におけるこのテロの捉え方をしることができる。多くの論争に惑わされて、視座を失っている人は、本書を読んで地上から一連の事件を再構成するようにするのがよいと思う。またイスラーム世界に関わる学問をしている人にとっては、新疆やイラン、東南アジアなどについて書いた第六章「定点観測/界面観察」が役に立つ。
ビーヴァー, アントニー, (堀たほ子訳)『スターリングラード―運命の攻囲戦1942-1943』
500頁強の大著の戦史。日本では「太平洋戦争」の印象があまりに強く、第二次世界大戦の欧州戦域に関する関心は強くないが、スターリングラード戦は、太平洋戦域におけるミッドウェイ海戦およびガダルカナル争奪戦と同様、連合軍と枢軸軍の圧力のベクトルが逆方向になった重要な戦闘である。本書はそのスターリングラード攻囲戦をロシア、ドイツそれぞれの一次史料に基づいて再構成した戦史ノンフィクションである。ほぼ1年にわたるスターリングラード戦が独ソ双方の側からきわめて緻密に描かれている。
バルバロッサ作戦発動時のスターリンの指揮の粗雑さとうろたえぶりは最悪であり、スターリングラードまでのドイツ軍の侵攻を招いた重要な要因である。一方で戦略的にモスクワ以上に重要とはいえないスターリングラードに必要以上にヒトラーはこだわり、些末なことまで口出しをして前線の大混乱と最終的な壊滅を招いている。その意味では著者の「スターリングラード戦はスターリンとヒトラーの個人的な戦いの代理戦争であった」という指摘は非常に正しいように思われる。おそらく第二次世界大戦を通じて、もっともブラッディで破滅的な戦場はスターリングラードであっただろう。そして戦術戦略にはただジューコフによる大包囲戦のすばらしさが目立つのみで、とにかく両軍は長い間ひたすら血を流し続けただけである。そのような戦場を丹念に描く本作は、戦争をめぐるノンフィクションとして非常にすぐれたものと言える。
金谷武洋『日本語に主語はいらない―百年の誤謬を正す』
この手の問題について読んだのは大野晋『日本語練習帳』が最初だった。「は」と「が」をめぐる議論は執拗に展開されたにもかかわらず、結局日本語における主語とはなにかということが、いまいち腑に落ちなかった。その点を切り開いてくれるのが本書である。本書は、三上章の『象は鼻が長い』を援用して、日本語に主語はいらない、と喝破する。言語学の博士号をもつ著者らしく、啓蒙書でありながら充分に説得的な議論が展開されており、信頼できる一冊だ。もっとも、斯界ではいわゆる「主語」を主格補語と考えるのは、常識に近いようではあるが。
本書は、日本語文法を説明しにくいという教育現場の疑問から生まれたものである。英文法の理念を日本語に持ち込み、英文法の理念でなんとか日本語文法を理解しようとする現行の日本語文法にきわめて批判的である。日本語を母語とする我々にとって、日本語文法がきわめていい加減にしか説明されていなくてもあまり致命的なことはない。忘れてしまえばよいからである。
しかし、日本語を母語としない人びとに日本語を教えるために、文法が適当に説明できないということは致命的なのである。二人きりの場面で「私はあなたを愛しています」と言うことの不自然さは日本語を母語とするものにとっては自明である。一方で、主語述語を措定した上で基本文法を学ばされた日本語学習者には上記の文章は必ずしも不自然とは思えないだろう。非母語として日本語をまじめに学んだ者が、日本語文法の説明が英文法的であるために、上記のセリフを自然と考えてしまうとしたら、非母語として自然な日本語を話す人は驚くほど少なくなってしまう。上記のようなセリフを基本文として認識させ、「愛してる」を主語目的語の省略とする解釈は、日本語教育の場面からは著しく迷惑なものであった。
さて。先に日本語文法は日本語を母語とするものにとって重要ではない、と書いた。しかし、これには限定がある。日本語を学ぶうえで、という限定である。著者も認識していないようだが、日本語文法教育の欠陥は非母語教育としての日本語教育を難しくしているだけではない。日本語を母語とするものが非母語を学ぶことを限りなく困難にしているのである。他言語を学ぶ際に文法は限りなく有益な武器である。母語の文法への説明を理解し、母語の文法的概念と学習言語の文法的概念の比較を通じて、他言語の習得は容易になる。しかし、我々は日本語の文法概念をほとんど習得しておらず、たとえば日本語で書かれたアラビア語のテキストで「主語」と言われたら、それは英語の「主語」なのである。英語を通してしか、他言語の文法を理解できないのであれば、それはなんと不幸なことか。
おもえば英語学習上でも「文法不要論」があった。これは一義的には些末な文法事項の暗記を強要する英語教育への批判であった。しかし一方で、文法的に説明しにくい日本語を我々はしゃべっているのだから、英語も不要だという意識があったのではないか。日本語の骨格をより簡便に示すはずであった文法は、実際には複雑怪奇なものとして我々の前に現れた。当然、英語の文法もそのようなもので何の役にも立たないのではないか、と。
ここでさらに考えてみると、実は日本語文法で説明が混乱しているのは、文法の基本中の基本にあたるような部分にあったことに気づく。そして、英文法教育が些末な方向に走ったのは、文法の基本中の基本への不信感が表れてしまったのではないかと勘ぐりたくなる。果たして我々は定冠詞と不定冠詞の概念について納得のいく説明を受けただろうか? 果たしてtoやforなどについて、日本語の「てにをは」との比較で納得のいく説明を受けただろうか? このような説明を通じて初めて言語的世界の構造の違いが発見される。そしてその最たるものは実は、主語であり、人称代名詞であったのだ。本書が取り上げる問題は、ひとり日本語教育の場面に関わる問題ではない。他言語教育の問題でもあるのだ。本書を読んで、そのようなことを考えた。
和泉桂『キス・シリーズ』全11巻
知らない間に終わってた。あせって読んでない分をあわせて一気に読む。二巻からは以下の通り.
斎藤純男『日本語音声学入門』
人間の発声器官の構造というのは基本的に共通で、各言語それぞれの発音を経験的に学ぶというのは、どうにも効率が悪い。音声学とは、各言語共通の音声について理解する学問であり、本書は調音音声学に重点をおいた音声学の入門書である。
音声学を学ぶことで、各言語での発音記号がどのようなものであれ、その音が理論的にどのように発声できるかはわかる。本書の特質は、日本語の音声を特に重視し、音声学的に記述される音声が、どのような音であるかを可能な限り、日本語の音声によって説明している点にある。
日本語の子音はk, s, t, n, m, y, r, wしかないような錯覚があるが、本当はもっと色々な音が含まれている。たとえば、「我を張る」の「が」と「パンが焼けた」の「が」は音声学的には別の音である。このようにして自分が簡単に発することのできる音をしっかり認識し、そこから、舌の位置や摩擦のさせ方を工夫して拡張することによって、発音の世界が広がる。そうして、音声学で共通に用いられる国際音標字母(IPA)を学ぶことができるのである。多言語を学ばなければいけない人は、いっそのこと音声学から入ったほうが、発音関連は楽かもしれないと思う。
フェルドウスィー(岡田恵美子訳)『王書』
イラン人なら誰でも知っている『王書』の抄訳。王書は神話部、英雄部、歴史部の三部に大まかに分かれる。そのうち本書は神話、英雄物語を収める。同様のものに東洋文庫の黒柳訳があるが、こちらはさらに端折ってあり、手軽だ。まぁまぁ面白いし、ペルシア語は美しいものや凛々しいものを何にたとえるかとか、そういうところを知ることができる。古典として読んでおいてよいだろう。難点はもとが叙事詩であるのに韻文的味わいがほとんどないということである。しかし歴史部を誰か訳してくれないか、と思う。
酒井啓子『イラクとアメリカ』
推薦版。現代イラク史をまとめた一冊。酒井啓子氏は、世界でも数少ない「イラク」という国家の専門家の一人である。ジョージ・W・ブッシュの合衆国は「対テロ戦争」の目標を、アフガニスタンの次はイラクに定めた。このことによって、我々はアメリカ対イラクの図式の本質を、アメリカ対イスラームという印象を抱いてしまいがちだが、これは完全に誤った見方である。サッダーム・フサインのバアス党政権は湾岸戦争前はイスラーム復興運動を弾圧してきた経緯があるのだ。著者は、むしろこのような二元論的なイメージを形成し、アメリカという「敵」の対局に自らを擬すことで権力を保持しているとするところに本質を見る。以前にもフセインは世界を相手に「フセインかソ連か」、「フセインかイランか」という問いかけを発し、アメリカはフセインをとってきた。そしていま、「アメリカかフセインか」という問いかけをアラブ世界に発しているのだと指摘する。
フセインを支持しない限り、それはアメリカの味方をすることになるというこの理屈は、見かけよりも強力である。現実的に妥当するかどうかはともかくとして、人びとの目にはアメリカはイスラエルに見えるし、そのイスラエルはパレスチナで果てることのない戦争の再生産を続けているのである。これはアメリカのジレンマそのものであり、合衆国の同盟国日本の国民として我々が知っておいて良いことの一つである。
なお私見をまじえれば、勢力均衡の点から考えて、アメリカのイラン敵視が状況をとんでもなく複雑なものとしているのは明かである。湾岸戦争しかり、アフガニスタンしかり、イラクしかり、そしていまパキスタンしかり。アメリカがイランを失ったつけはあまりにも大きかった。すくなくともイランが「存在しない」かのように扱っていることが、状況を悪くしている。最低限、イランという国家のプレゼンスは認めるべきであろう。
田中宏巳『BC級戦犯』
特選版。私たちの第二次世界大戦へのまなざしは、冷戦構造のなかで、あまりに観念的なものに固定されたように見える。その一つの象徴が東京裁判であった。それは国民の真摯な反省の賜物でもあった。しかし、こと歴史的政治的な視角から言えば、失ったものは非常に多い。
その第一は、はたして第二次世界大戦をめぐる日本の政治とは何だったのか、そして日本は何に失敗したか、である。情緒的で、観念的な反省の材料がA級戦犯に析出しているとしたら、第二次世界大戦をめぐる現実の歴史が凝縮されたのが、BC級戦犯であったことを本書は明らかにしている。
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