カテゴリー: 本
2002年11月の読みたい本
ディケンズ, C.,(中野良夫訳)『二都物語』全2巻
前嶋信次『イスラムの蔭に』
永田雄三編『西アジア史2―トルコ・イラン』
和田春樹編『ロシア史』
渡瀬悠宇『ふしぎ遊戯』全18巻
井筒俊彦『井筒俊彦著作集別巻―対談・鼎談集』
本田孝一, 師岡カリーマ・エルサムニー『アラビア文字を書いてみよう読んでみよう』
篠原千絵『天は赤い河のほとり』全28巻
最近わたしが読んで気に入った漫画に、篠原千絵『
一番頻繁に指摘されることに『王家の紋章』との類似がある。確かに物語のきっかけは、ほとんど同様だし、王子様物語の点も、現代の知識をつかって古代(というより考古学年代)を生き延びるという点も同様である。であるが、本質的な違いがある。それはストーリーの動因だ。『王家の紋章』は、さまざまな「王子さま」が登場し、そのうえでひたすら横恋慕と陰謀と誘拐だけが永遠に連なっている。「王子さま」たちは政治も軍事も全て無視してでも決してキャロルをあきらめることはない。その永遠が、あまりに単調なのだ。それに対して、『天は赤い河のほとり』では、すこしずつ環境が動く。『天は赤い河のほとり』の王子さまたちは、なし得る政策合理性と己の感情の中を悩みつつ進んでゆく。なによりもラムセスはユーリを「あきらめた」。『天は赤い河のほとり』には若干のリアリティがまだ残存しているのだ。その点で鉄器や馬といったものにかかわる研究をトレースしているように見えるのは、好ましい点だ。おしむらくは、騎乗している絵に「鐙」が描かれていること。鐙の導入によって、軍事力としての馬の価値は四倍増に近い。そしてこの時代、鐙はまだ発見されていないであろう。馬に注意を払った作者であっただけに、残念である。とおもったが、よく考えたらユーリが鐙に思い至らないのはおかしい。私は経験があるが裸馬に乗るのは本当につらい。ここは欠点である。
一方で『天は赤い河のほとり』には、『王家の紋章』に見られる現代と過去の相互通行性がない。これがあれば巻数倍増でよりおもしろくなっていただろうに、と私には悔やまれてならない。が、それはそれでよいのだろう。解決のつけようのない問題ではあるのだから。
五十嵐武士, 福井憲彦『アメリカとフランスの革命』
2002年1月~10月の読みたい本
池内恵『現代アラブの社会思想』
『現代アラブの社会思想』は9.11後の出版。本書の概要は次のようになる。社会思想史的には、アラブの「現代」は1967年、第三次中東戦争の敗北に始まるという。ここでナセリズム、アラブ社会主義は退潮し、かわってイスラーム主義と急進左翼の勢力が強くなったと言う。しかし急進左翼は、その理想像とした中国文化大革命の真相が明らかになることをはじめ全世界大での左翼の敗退をきっかけに勢力を失った。一方のイスラーム主義も理想像を鼓吹するのみで、その行動は次々と先鋭化するにもかかわらず、現実的な対策を具体化することはできず、結局イスラエルを倒すことはできなかった。
ここに、現世での理想郷の建設をあきらめ、来世に求める終末思想が登場する。そして急進左翼の倒すべき目標アメリカ=イスラエル独占資本主義帝国主義枢軸とイスラーム主義のジハードの対象であるアメリカ=イスラエルは、陰謀をたくらむ偽救世主にまで昇華するのだ、とのこと。
著者によると、オカルト的な色合いを帯びた本もサブカルチャーではなく、立派な著作として受け取られる風土がすでにエジプトには形成されているという。これを一つの社会誌として受け入れるならば、それはエジプトであるがゆえなのか、あるいはアラブ全般なのか。そして非アラブのイスラーム世界ではどのようにこのような傾向が受け取られるのだろうか。
私市正年『イスラム聖者』
『イスラム聖者』は確かにまともな本なのだが、いまいちおもしろくない。これは私がそもそもあまり興味がないということもある。私市さんの聖者へのアプローチは、人類学的手法というよりは、あくまで歴史学的手法をとっており、聖者伝などに依拠する。しかし、聖者伝史料自体が、マグリブそれもモロッコなどの西部に分布が偏っており、そこに現れる聖者像がどこまで一般化出来るか疑問もある。本書ではあくまで時代的・地域的対象を絞っていることをきちんと記述してはあるのだが、読み物としてはおもしろくなくしているとは言えるだろう。これはマグリブ関係の書物一般に言えるのだが、社会誌や人類学研究と政治史の関わりがいまいち見えてこないことが多い。政治的変動と社会構造の観察はヤヌスの両面をなすとおもうのだが。
なお、そもそも「聖者」というのがアラビア語の一般名詞として考えるべきではない、というのは注意を要する。地域ごとに「聖者」の呼ばれ方はことなっており、その性格も異なる。したがって「聖者」とはキリスト教における聖者とは全く異なり、テクニカル・タームなのである。
有用な本
じっくりと勉強をしている暇はないが基礎から料理をやりたい人に浅田峰子『基本の台所』グラフ社,2002。サラダとパスタは一人分の分量がうれしい村上祥子『超カンタン!村上祥子のサラダ革命』講談社,2002。それからsaita mook『すっごく簡単! パスタとサラダ』芝パーク出版,2002。
大塚和夫, 小杉泰, 小松久雄, 東長靖, 羽田正, 山内昌之編『岩波イスラーム辞典』
岩波書店から大塚和夫・小杉泰・小松久雄・東長靖・羽田正・山内昌之編集『岩波イスラーム辞典』が刊行された。平凡社『イスラム事典』から20年。現在、イスラーム研究の最先端を走る諸氏の編集になるもので、さっそく手にいれた。以下、一読してみての感想。
- ウリの一つであるが、たしかに近現代に強い。現代の組織・政党、人名はかなり綿密にあげてある。特に現代政治は「イスラム事典」では刊行年から当然湾岸戦争さえも含まれないわけで、我々はこの分野にかかわる事典をはじめて手にしたといってよい。
- 概念的な項目が非常に充実している。思想史や法学・モラルエコノミーの関連項目は、現代とのつながりも説明しており、「イスラム事典」と比べても大変詳しい。
- 非アラブ圏への目の配り方が細やかである。特に中央アジアは非常に充実している。非イスラーム世界におけるムスリムについての記事がある。
- 意外に建築史・美術史、特に陶器とモスク建築に関して詳しい。
- 表記・転写法が比較的厳密である。
- 前近代の歴史的な事件についての項目は、かなり端折ってある感じがする。
- 各記事末尾の参照項目や索引については不備が目立つ。関連項目でも違う執筆者の場合、参照が設定されていないことがあるし、巻末索引は項目一覧にすこし足したもの、という感じである。よって「読む」にはあまり向いていない。
- 高い。需要を考えればこの程度かもしれないが、おなじ岩波の「現代中国事典」が1457ページで6600円であることを考えると、1257ページで7500円は少々考えものである。装丁はきれいだが。
総じて、もっておいて損はない辞典という感じである。ただし短所もないわけではないとおもうので「イスラム事典」と併せて参照(特に歴史の分野での工具としての使い勝手からいえば、少々ものたりない)というスタイルが推奨される。
「イスラム事典」がイスラーム史の事典としての面が顕著であったとすれば、「岩波イスラーム辞典」は地域研究としての側面が強いといってよいだろう。と書いた端からメールが来て、平凡社「イスラム事典」の全面増補改訂版「新イスラム事典」が3月11日に発売とのこと。
『美少女たちのジハード』
なんとなく雑誌コーナーを見ていたら竹書房から『美少女たちのジハード』なるものが出て結構あまっていた(12月発刊)。まずいだろ、とおもって見てみた ら、解説文は意外とまともだし、イスラーム建築の写真もなかなか美しい。しかしそうすると逆にグラビアページはほとんど邪魔。はっきりいってまとまってい ない。だいたいウィグル族とかイスラーム世界の周縁部の女の子がほとんど。その意味からいえばやはりムスリマが写真に写りたがるという解釈はしてはいけな いし、わかってジハードという言葉を使ったとは思えない。
久留島典子『一揆と戦国大名』
池上裕子 『織豊政権と江戸幕府』
藤木久志『雑兵たちの戦場』
戦争があるから荒廃がおき,飢饉が起こるのではない.まず飢饉があった.そして飢え死しないために,生きるために,人々は戦争に身を投げ打っていった.歴史のなかに浮かび上がる戦争の常態とは,日本にかかわらず生計としての戦争であったのだ.
「餓え」という観点から見るとき,気候変動は,本書の場合の17世紀の気候的変動は,13世紀のそれと並んで非常に重要なのであった.ヨーロッパ史の文脈からいえば「17世紀の全般的危機」の諸相の一部にこの気候変動があったことは疑い得ない.本書のすばらしいところは,そのような餓えにあたって人々がどのように動き,そして社会がどのように変動してゆくかということを微視的な点から明らかにしたことにある.そこにこの歴史書が,単なる歴史学書を越えた意味を持つのである.
戦争,特に総力戦に人災の面が大きいことは否めないし,戦争を憎むことも重要である.しかしながら歴史上全ての戦争の原因を人災に帰するとしたら,それは自然の軽視であり,人々の「生」への欲求の軽視であり,傲慢であろう。戦争の原因が飢饉であり,口減らしとしての戦争が充分な役割を果たしたとき,戦争の原因は取り除かれるのだ.全ての社会・人文に心を寄せる人々に勧める.
なお,2005年に上記の新版が選書として刊行されている。