カテゴリー: 本
高山博『中世シチリア王国』
推薦版。日本が誇る中世シチリア王国研究の第一人者高山博氏の一般向け概説書がついに江湖に評を問うことになった。シチリアはヨーロッパ、ビザンツ、イスラームの3つの文化を互いにおりまぜ、共栄させた「地中海帝国」である。なによりも驚くのはその文書の多元性である。すなわち行政文書はラテン語、ギリシア語、アラビア語の3語が使われていた。そして官庁もまた「ドゥアーナ・デ・セクレティース」は「ディーワーン・アッタフキーク・アルマームール」のように複数の名で呼ばれた。高山はこれらの言語を使いこなし、従来別々の官庁と理解されたりして、高度に複雑化された官庁機構というイメージをうち破ると同時に、ヨーロッパへの文化の伝達者というような欧州中心主義の視点からも解放されたリアルな姿をやさしいことばで教えてくれる。こむずかしくない概説として両シチリア王国を知るには絶好の書である。
野村實『日本海海戦の真実』
本書は1982年に発見された「極秘明治三十七年海戦史」をもとに司馬遼太郎の「坂の上の雲」に代表される日本海海戦のイメージを実証史学の立場から検証してゆくものである。主な論点は二つである。
まずバルチック艦隊を対馬海峡で的確に迎撃できた背景について。従来、これを東郷の深慮遠謀によると考えられてきた。しかし、それは間違いである。根拠は次のような点である。日本海海戦の直前には、連合艦隊は明らかに津軽海峡方面へ北上しようとしていた節があるということ。そして北上論は主に秋山真之によるものであったのではないか、ということ。そのために会議が催されていたこと。さらに大本営と意志疎通の不徹底があったということなどである。
第二点は、いわゆる「丁字形」戦法の立案について。こちらは従来東郷が突発的におもいつき、敵前回頭に及んだものとされてきたが、実はすでに戦前に東郷が立案し、大本営に提出されていたものである、ということである。それに従い、日露の数ある海戦で何度も丁字形戦法の実験が行われていたのであった。
著者は、これらは東郷神格化の過程で失われていった真実であり、のちの「艦隊派」帝国海軍の姿の遠因がある、と論ずる。良書である。
アリアドネ編『思考のためのインターネット――厳選サイト八〇〇』
本当に厳選され、役に立つサイトが収録されている。ネット上のアリアドネより詳しい解説が載っている。併せて使うと便利。ただし、前提として英語が読めることがあるのはいうまでもない。
小倉紀藏『韓国は一個の哲学である―<理>と<気>の社会システム』
韓国の政治、社会、歴史、文化をすべて理気学という朱子学の発想で読み解こうとする奇抜の書。中国が満洲族の清朝に下ると、半島では、にわかに朝鮮こそが中華なりとして、理気システムの発達が急速に進んだ。そしてそのシステムは現在まで続いているのである。
韓国人の冷たいまでの合理性や議論好き、口を開けば、あなたは「~すべきだ」という偉そうな態度。その一方で市場のおばちゃんのあたたかさ、電車で隣り合った韓国人のひとなつこさ。この矛盾は解きがたく思ってきた。ところがこれは実はヤヌスの両面だったのだ。理と気、相互に一体となった裏表。理気システムに全ては内包されていたのだ。
全く持ってひさしぶりに納得してしまった文化論である。
鈴木孝夫『日本人はなぜ英語ができないか』
著者は「日本語は国際語たりうるか」などで知られる論者である。日本人の英語のできない原因として、「憧れとしての外国語」を挙げる。これは明治後期には払拭されてよかったはずのものなのに、なぜか残ってしまっている。そこで「憧れ」ゆえに国民全員に外国語を、という発想が生まれるのだという。
しかしながら、この発想は教育という見地からは極めて不合理である。日本人として日本で暮らしていくのに、英語が必要ないのも全くの事実。だからもっと少数精鋭にして、それ以外は不要にすればよい、というのが著者の主張だ。そのためには国際理解に英語を使うのではなく、まず日本を知るための英語を学ぶことが必要だとして議論が展開される。
私自身にとっても、日本の書物が英語に翻訳されてどれだけ出回っているのか知りたいし、また外国人の書いた日本に関する「地球の歩き方」なども読んでみたいと思うのである。情報発信型になるためには、日本を発信せねばならぬことは明らかである。
根井雅弘『21世紀の経済学―市場主義を超えて』
この書はケインズを専門とする経済史家による、現今の市場万能主義に懐疑感を示しつつ、新古典派を無視することなくバランスよくレギュラシオン理論や複雑系にも触れた現況の経済学の総括である。特に目新しい主張はないが、頭の整理をするにはもってこいで、巻末の文献案内は有用である。
井上史雄『敬語はこわくない――最新用例と基礎知識』
敬語の変化は、当然の言語の歴史的変遷という立場から、敬語がどのように変化してきたかを示す。いわゆる実用本でないため、おもしろい。ただの誤用事典でないし、変化する、という前提にたっているため議論には納得するところがおおい。「敬意低減の法則」という、常に徐々に敬意が低減されていくという法則、もう一つ「敬語の民主化」という傾向が普遍的であることを知り得たの大きかった。また日本の敬語は九州から東に進出する、というのもなかなかにおもしろい。「~させていただく」という表現に関してはかなり詳しくケーススタディがしてあるので、その部分だけ読んでもおもしろい。
国分良成『中華人民共和国』
中華人民共和国はさまざまな面を見せてきている。たとえば国内経済に対しては発展途上国の顔、そして外に向かっては「富強」を志向し、一部実現したと誇る国家の顔である。それを著者は「中国の世界」と「世界の中国」という二つの軸を導入し、現況を分析している。この二面の融合あるいは表裏が著しく強気にみえつつ実は非常にリアリスティックな政治を行っている中国の鍵である、としている。
そして21世紀への中国の道筋、これを決めるのはいまや「経済」の世界から「政治」の世界に移りつつある、と主張する。
山内昌之『イスラームと世界史』
著者による1997年から1999年までさまざまな雑誌に掲載された歴史とイスラームを絡めたエッセイを編集した物。ジャーナリスティックなものも歴史哲学的なものもあり、読み物としてはおもしろい。特に「丸山眞男の読んだ『神皇正統記』」が特筆。親房が政治哲学をもち、正しい治国を行うためのノブレス・オブリージュの観念をもっていたことを丸山がきちんと見抜き、単に復古の徒とは見ていないことを教えてくれる。現在の朝日的知識人との違いの所以である。
そしてまた本書を貫く一つの意識は、ユートピアを求め、それを実現しようとし、平等と人間中心の世界を作ろうとすることが、大きな犯罪につながってしまったことへの回顧である。引用されるギリシア格言「悲劇が明白な悪の勝利にあるのではなく、善の悪用にある」は、非常に重要な示唆と深い納得を与えてくれる。
広田照幸『日本人のしつけは衰退したか――「教育する家族」のゆくえ』
歴史的に検討して上では「衰退していない」というのが著者の主張である。「日本人のしつけが衰退した」という議論は、一昔前の「よい」記憶を、現在のマスコミを騒がせる「もっとも凶悪な犯罪」と比較して、昔はよかったという結論を出そうとするノスタルジックで反動的な動きにすぎない、と著者は喝破する。すくなくとも総体としての犯罪が減少しているのは事実である。
また、戦前の村の社会はしつけなど眼中になく単に家産労働を手伝えば、それでよかったのだ。むしろ都市上流のみが、ある程度教育できる家族であっただけで、それ以外、特に地方ではそうではなかった。地方間格差を考える必要がある、という主張もある。
どちらにしろ「教育する家族」は中流層が学歴貴族願望をもつ近代化の過程において、歴史的必然として現れるものであった。決して社会道徳の向上や低下を単に表すものではないという指摘は重要である。
見沢知廉『天皇ごっこ』
著者は新左翼にいて、のち右翼に移った人らしい。本書は、刑務所、左右セクト、精神病院、北朝鮮などの各章をたてて、日本人のこころにいかに「天皇」なるものが染みついているか、過激に主張される。「左」もまた分派を統合して大きなうねりを持たせるためには「天皇」に反対することだけが道具となりうる、としている。
私はこのような主張は全く受け入れがたいが、もしかしたらおもしろいと言えば、おもしろいのかもしれず、「朝日的教養」を若干は崩してくれそうな気はするし、「産経的保守」もまたある程度論破してくれる。