進藤榮一『敗戦の逆説-戦後日本はどうつくられたか』

特選版。アメリカの日本占領政策はどのように作られたのか? 通説的にはグルーらが発案した「知/親日派」の宥和的だった政策が、親中派によってよりハードなものになっていったとされている。しかし実態はこのような二項対立の単純なものではなく圧倒的に複雑だった。

当初国務相知日派=グルーらは、19世紀的リアリスト=スティムソンら(ちなみにスティムソンらは「日本の文化を愛し」京都の破壊などの防止を進言したとされるが、それは現実政治的理由であって、ロマンティックな理由ではなかった)と協調して、戦後日本に「30年代-軍部」の体制を樹立しようとした。すなわち守旧派である(彼らは概して旧日本のリベラル層=牧野、木戸ら)に期待していた。また日本特殊論も包摂していた。

しかし会議/決定レヴェルが終戦に近づくにつれて地域専門家>国務省>SWNCCと上昇して行く中で、戦後日本占領政策は土地改革など抜本的な改革を行おうとする政権のニューディーラーたちの影響力が強くなって行く。はじめ「30年代-軍部」という「国のかたち」の表面的政治改革だったものが、やがて土地改革、財閥解体も含んだ社会経済変革も含むものとなり「国の中身」をかえる政策となった。

しかしながら戦争終了後の政策実行段階では、終戦前から徐々にクローズアップされてきた対ソ戦略の影響を受け、米一国間接占領の形をとることになる。土地改革、財閥解体は滑り込みの形で実行され、その後は米=日の守旧派が対共戦略を後ろ盾に巻き返しに出てくることになる。つまりアメリカから見れば、日本の土地改革、財閥解体はニューディーラーの最後の贈り物というふうにも捉えられるものであった。そのころ国内ではとっくにその力を失っていたのである。

加賀乙彦『永遠の都』全7巻

大河小説をよみきった快さを感じる。舞台は、本書の「永遠の都」は東京。昭和11年から昭和23年までの時代を三田に病院を構える時田利平の一族の眼を通じて描く。上昇志向・立志の人利平の一家、アッパーミドルのサラリーマン小暮悠次一家、実業家から政治家へと転身する風間振一郎一家ら、さまざまな眼を通じた戦争が描かれる。しかしながらその「戦争」と「帝国」は人々の一風景に留まるに過ぎない。家族のありかた、人の愛し方……朝鮮人蔑視、軍国になびくカトリック……様々な問題を孕みつつ物語は展開する。

私がふと眼を見開かれる思いだったのは、終戦後新聞に再び天気予報の欄が設けられ、人々が「平和」を実感する、というくだりであった。夢と生き方という主観的問題と、歴史という蓋然的な流れが絡まる。著者は主張せず、歴史を判断しない。それだけに歴史書としての小説といえるかもしれない。







大津留厚『ハプスブルクの実験』

推薦版.神聖ローマ帝国の解体を経て、普墺戦争終了後に歴史上珍しい「オーストリア=ハンガリー二重帝国」という国家が形成された。アウスグライヒという協定によってむすばれ一人のハプスブルク君主、二つの政府、一つの軍、一つの大蔵省という形をもつ国家であり、そしてオーストリア(正確には帝国議会に代表を送る諸邦-であって、オーストリアという国家は存在しない)もハンガリー(一方こちらはある程度集権的で、一つのハンガリー王国とみなされた)も雑多な民族構成の国家だった。しかし近代国家たる以上、ある程度の集権化をはからねばならない。それが<軍の統合>であり、<教育の徹底>であった。

前者、軍は言語ごとに連隊が編成された。そして召集地に近い場所に駐屯し、かつ全言語的に均等な召集がなされた。そこで軍隊生活を共同の体験とするわけで、国民統合の一定の役割が軍に与えられた、と言えよう。しかし国民統合の役割としての軍は、あくまで象徴なのである。著者の「ハプスブルク軍は戦ってはならない軍隊だった」は強い示唆を持つ。

ハプスブルクの実験は、軍、行政、教育、議会……とさまざまな範囲に渡って、多民族間の均衡を探るものだった。そしてある程度の「共生」に成功した。その遺産は東欧に受け継がれるはずであった。しかし。クレマンソーの権力政治がウィルソンの理想主義に正当化され、民族自決の神話となったとき、その道は閉ざされたのである。もともと東欧は多民族な地域である。しかも混然とした。そんなところで民族自決は、ひたすら周りを切り落とし続けて行くことでしか得られないのである。それは果たして「実験」の実り豊かな果実と言えるだろうか?それは旧ユーゴ各地の問題をみれば、おのずと明らかたりえる、と私は考える。

藤本ひとみ『侯爵サド』

精神病院に監禁された老いたサド侯。そこで一つの審問が持ち上がる。すなわち侯を治癒可能な精神病者とするか、不可能な犯罪人として収監するか。理事長は前者の立場に立ってトラウマによる患者であると説明しようとし、院長は後者の立場をとる。その審問でサド侯を巡る事件を一つ一つ事実確認、審議するという手順で描き出した小説である。

心に残る言葉。理事長はサドは神を否定し、反発しなければならないような境遇におかれた、と解釈した。その解釈を裏付けるためパリの精神科の権威をたずねている。最後に「全力を尽くしたまえ、後は、神の領分だ」といわれて、驚いている。なぜなら神を否定することは信じることの反対であり、どちらにしろ「神」とは彼にとっては相対化される軸であった。そこに尊敬する名医に「神」という言葉が持ち出されたからである。なぜかと問う彼に、老医は応える。「神さえも創造しえた人間の、愛と生命の力を信じている」と。

上村幸治『中国路地裏物語――市場経済の光と影』

北京の裏町にはいまも昔ながらの造りの家が広がっている。そこへ行けばさまざまな声を聞くことが出来る。豊かになりつつも殺伐としてきた空気、「先富起来」から「共に豊かに」とスローガンは変わった。中国政府のスローガンはその反対方向に現実が進んだ時に登場する。南巡講話の夢が今現実となりつつある。そして光の裏の影は。

橘木俊詔『日本の経済格差―所得と資産から考える』

推薦版.本書は経済統計を駆使して、私たちの目から鱗を落としてくれる。その鱗とは「日本は経済格差の少ない、総中流社会」という神話である。著者によると戦後一貫して不平等化は進行している。バブルはそれに拍車をかけ、バブル崩壊は逆に平等化をしたように見せた。が、戦後の進行を考えるとバブル期が異常であっただけで、バブル崩壊も「戦後の着々とした不平等化のペースから見て自然な場所」に戻しただけであった。いま、世間では規制緩和、直間比率見直が叫ばれている。著者から見ると、不平等化に油を注ぐだけ、ということになる。

しかし私が思うに、結果の平等ではなく、機会の平等を求めるべきであろう。その意味で私は著者の第1の提言である累進課税の強化には反対である。しかし第2の提言である相続税の強化には賛成である。なぜなら結果の平等を保証しないなら、機会の平等を徹底して保証しなければ、自己責任をとらせることはできないからである。生まれながらの高所得者を私はあるべからざるものと思う。