崔仁浩『消えた王国1 秘密の門』スコラ,1995.
崔仁浩『消えた王国1 秘密の門』
崔仁浩『消えた王国1 秘密の門』スコラ,1995.
崔仁浩『消えた王国1 秘密の門』スコラ,1995.
崔仁浩『消えた王国1 秘密の門』スコラ,1995.
NHとJLを矢面に立たせて、サーヴィス論を展開している。個々のクレーム例などは「ふーん」で済ませてよいと思うし、実際苦情を受け付ける能力をNHが失ってしまっていたのも事実なのであろう。しかしこの書物でより重要なのは表題のNHではなくサーヴィス論である。
日本人の多くがキャビンでのサーヴィスを「自分が特別扱いして貰うこと」=ホステス的サーヴィスだと思っていて、航空会社もそれをサーヴィスとおもって唯々諾々と従ってしまっているのが現状の日本の空であると指摘する。飛行機を特別な乗り物と思い、そしてそう思って乗っている自分は特別と思い、奴隷のように客室乗務員を見下すフリークエント・フライヤー。その逆のコンプレックスで自分は航空会社に勤めていること、これを「ステータス」のように思いこみ、一般の乗客を「カーゴ」扱いする社員。奇妙なおもねりと傲慢さが支配するFクラスのキャビンの雰囲気が全社を支配してゆく。それがエアラインが墜ちてゆく過程だとの主張である。
お互い人間として、あるべきサーヴィスを感謝を持って受け止める乗客と、ホスピタリティ溢れたキャビンアテンダントと、その雰囲気をより育てて行くエアライン。これが理想と言えるような気がする。日本的ではないのかも知れないが、個人主義的なホテルのサーヴィス、暖かく不自然でなくスマートな、サービスをして欲しいと思う。
ナショナル・フラッグ・キャリアとして「国」を背負ってしまい、単なる運輸業の自覚を無くしたときが危ないと筆者は主張する。余裕ある二番手は美しい。アンセットがそうであり、アシアナがそうであった。そして全日空もそうだったのだ。地方から地方へと向かう航空機の乗客に一生に一度のフライトを楽しむ老夫妻が居るかも知れない。その人達の集積が航空を支えている、くらいに思った方がよいのだ。
ちょっと褒めすぎた感がある。苦言を呈すると文章にむやみに漢字を使いすぎである。カタカナがどうしても多くなる業界だけによみにくい。「仮令」なんて普通使わない。それからサーヴィス云々したところで、所詮はFやCクラスのフリークエントユーザーである。だからエピソードもそちらに傾きがち。説得力がないと言えば、ないかもしれない。
推薦版.この本は寺崎英成という外交官が、昭和天皇の戦争当時を回想しての口述を記録したもの-寺崎手記をおさめている。以前に文芸春秋に掲載され大きな話題となったが、現在では戦時の研究を補強するのに使われているようだ。
この終戦後の聞き取りを行った時期の帝の視点は、天皇制自由主義的帝国主義者のそれである。そして当時の国民の多くと近いものだったのではないかと思われる。
内容の探求は伊藤、秦、児島、半藤といった識者の座談(本書収録)をよめばよい。むしろこの書物から浮かび上がってくるのは、アジア太平洋戦争記の宮中の雰囲気であろう。私としてはやはり木戸内府の存在の大きさを再確認した。
さて。当時の日本を振り返るときには三つの視点が存在するように思える。1に共産党がいうような現在の視点からの否定(すなわち当時の状況・環境を考える必要はなく普遍的に否定)、2に当時の軍国主義・精神主義を否として、英帝国のような自由主義的帝国主義のかたちを取っていれば容認、三に戦争賛美の論調である。戦後の冷戦神話のせいか、どうしてもアジア太平洋戦争がイデオロギー的対立であったというイメージができあがってしまっているように思える。一方で帝国主義的な対立もあり得たと言うことを忘れてはならない。
私たちが見るとき上の3は論外としても、あくまで歴史的、政治手学的に見るということを大切にしたい。それぞれに関してきちんと整理して、考えて見ねばならない。凝り固まることで、当時の歴史上の戦略論として発表されたものを、現在の規範から猛烈に批判するということは、背景からしてずれており中傷合戦となる。このことは本当に気を付けなければならない。
大人は既に考える道具として「母語」を持っている。故に小さな子供も日常会話さえできれば、自分同様考える道具としての言語を身につけたと思いこんでしまい、「学習言語」のレヴェルという重要なことを無視しがちである。
本書が最も強く警告してくれるのは最低限の母語を習得せねばならぬということで、中途半端な教育を他言語にわたって親が小さな子供に強要する場合、二言語とも年齢相応のレヴェルを獲得できないセミリンガルになってしまい、将来に渡って知的能力に障害が発生してしまう危険である。
そこから派生して強く主張されるのは、言語が形成され完成するのは小学校六年生程度であるので、小学校三/四年生での出国や帰国には非常な注意が必要であるということだ。できれば小学校一~六年生までは同一言語環境で教育を受けさせるべきであること、もう一点は母語習得後は、母語の能力レヴェルと学ぼうとする言語でのレヴェルに相関関係が認められるということである。すなわち中途半端で幼稚な日本語しか使用できないものは自ずと英語の学習にも限界が発生してしまうと言うことである(日本語が母語で英語を学習しようとする場合)。
日常会話と、正しく美しく専門的な言葉との間には大きな溝がある。すらすらと話せることで幻惑されてはならないこと、逆に慣れだけではダメでモチベーションを維持していかなければならないこと。これは押さえておく点であろう。
航空評論の草分け、杉浦一機による航空事情解説書の新装版。彼の提言は多岐に渡り、また上下巻双方の1/4をしめるエアラインガイドも有用だ。
杉浦が特に強調するのが日本でのハブ&スポークの活用である。日本の大都市の空港のパンク状態はますます有名だが、ここにいたってハブ空港というタームが多用されるようになった。いうまでもなく羽田などはかなり多くの乗り換え客が利用しているわけである。
そこで杉浦は国内的には東京をハブ化する必要はなく、羽田はただの東京に出入りする人の玄関たるべきであるとする。そして逆に地方-地方路線も採算が合わないのも当然。であるから地方の中心空港を活性化すべき。例えばまず羽田-北海道各地の便を廃止する。これによって離着陸が満杯に達している羽田での発着を大型機のみとしてランウェイの効率よい活用を目指し、B747を中心として羽田-札幌を増便する。その上で、札幌のハブ機能を高めて、各地に分散させるという方式を提唱する。また国際線もアジア近距離ではその行き先(たとえばソウル)を札幌同様に考えて羽田発着にしてもよい。地方-地方路線も単純に運行したのでは採算は望めない。かといって東京に発着させると効率が悪い。そこでいっそのこと東京に寄らない客はすべて新潟に集中させてしまうという案である。
なかなかに魅力的な案だが、そのためには乗り継ぎ料金を設定する必要があろう。また離発着をすること自体が、金がかかるということも問題である。なぜ詳しいはずなのに言及がないのだろうか?
主に航空政策が中心になっているが、副題の<より便利に>の視点がいかされた本である。ただし普段飛行機に乗ることがない人には、もしかしたらどうでもよいことかもしれない。