康煕字典信仰について

HTML関連の話題を追いかけていくと必ず行き着くサイトがある。「言葉 言葉 言葉」というサイトである。ここでは「国語問題」をとりあつかっている。HTMLの文法をどのように日本語に適用すべきかを考えていれば、日本語の扱い自体を考え始めるのは当然である。「言葉 言葉 言葉」では、おそらくは日本語の問題をWebで公表するに当たって、HTMLの問題にぶつかったのであると思う。

さて。そのサイトでは正字正かなを用いている。少々エキセントリックな形での主張の仕方ではあるが、正字正かなを用いるべきという主張は概ね首肯できる。戦後の国語改革が性急に過ぎたのは明かである。漢字制限については、漢字に関する知識の不足を招き、我々の語彙、ひいては教養を薄いものにしている。その結果「世論」の意味合いの考えようもないから「せろん」「せいろん」「よろん」の起源を誤ってしまう。一方のかなづかいについても、原則の不足が一貫性の欠如を招いている。このようなことを考えると正字正仮名遣いを行うことが無意味であるとは言い切れない。

しかしながら正字正かな論を主張する人びとの中で、一部に問題がある主張をする人がいる。それは書体についてである。はたしてどの書体を用いるか。正字正仮名を主張するサイトをまわってもこの問題への言及は著しく少ない。しかし、その少ない中に、康煕字典体を金科玉条とするようなものがある。原因は、当用漢字、常用漢字への批判に集中するあまり、戦前までの字体が不変であるかのように思いこんでしまったことにあろう(幸いにも「言葉 言葉 言葉」はこの立場に立っていない)。これでは単なる規範論である。たとえば、康煕字典体に盲従するあまり、新旧漢字対照表で「玄」の旧字に、最後の一画を欠いたものを掲げているサイトがあった。この一画を欠いた字が康煕字典体に載っているからといって、正字体と勘違いしたのである。正字でも最後の一画は必要である。康煕字典でそのようになっているのは、康煕帝の諱「玄燁」を避けたからに他ならない。このような誤りを犯してはならない。

さらに書くにあたって、康煕字典体で書くことを勧めるような主張があることには驚かされる。明朝体は、そもそも印刷して、読みやすいことを狙った書体であると言うことを忘れている。明朝は単に旧活字であるに過ぎず、正書体ではない。印刷用にかなりの修正が加えられているのである。正字体を用いるべきという主張は一定の正しさがある。しかし、こと書において印刷字体を用いよとはいかなる言か。康煕字典体は、イコール正字体ではないということを忘れてはならない。漢字の正書法は書に見いだすべきである。楮遂良、顔真卿らの書を見ずに、書体論を行うのは浅薄であろう。そして、印字書体について、あくまで正しさにこだわるならば、明朝ではなく、本来の楷書により近い宋朝体を用いるべきなのである。

イスラーム世界的やおい

そんなものはない、とおもっていたが、ついにその手のオンライン小説を見つけた。宰相殿の夜伽話である。構成としてもなかなか秀逸で、19c初のオスマン帝国スルタンにある宰相が千夜一夜を語るという形式なのだ。で、その語りの内容がやおいになっていて、フランス革命や日本の事情にも触れたりする。17c末のスルタンであるスレイマン2世が19c初とされるのがいまいち解せないが、もとの千夜一夜の内容はアイユーブ朝からマムルーク朝にかけてのエジプトがモデルであろうことを考えれば、時代的な内容についてはこうるさく言うことでもなかろう。

水筒の効用

保温の効く水筒を買って、毎日自分で珈琲を立てて、学校に持っていっている。私の行く喫茶店の珈琲はそのへんの珈琲より圧倒的においしいので、外であまりおかしな珈琲を飲むのはつらくなってしまっている。おかげで、図書館に籠城していたりすると、時々珈琲を飲みたくなったりするのだが、その時に缶コーヒーなどでお茶を濁すことができない。その解決策として用意したのが、水筒持参なのである。

昨今の水筒は優秀で、保温性能も充分だし、なにより素材の工夫によってずいぶん軽くなっている。ありがたい限りだ。キャンパスでペットボトルを鞄に突っ込んで歩いている人をよく見かけるが、水筒を持ち歩いてもさほど変わらないはずだ。珈琲や紅茶ならきちんといれたもののほうが、ずっとおいしいに決まっているので、水筒に自分好みの飲み物を入れてくるというスタイルは、充分に推奨できるものである。

「たかだか」

数学の世界では「たかだか」という言葉を「xはたかだかnなので」というように使い「xはnを越えないので」という意味であるということを、上記のサイトを見てはじめて知った。もちろん一種の「仲間内言葉」(えっと何て言うんだっけ?)に違いないけれど、おもしろい。普通は「たかだか三十の若造が……」みたいな文脈で使う。どういった経緯でこんな使い方が出てきたのか。時間をかけて調べてみたい。

数理学科所属の4年生を対象とするこの「卒業研究セミナー」は,数理学科におけるカリキュラムのハイライトです.たかだか5人程度の学生を,第一線で活躍する研究者でもある教官が直接指導します.徹底した少人数教育,それが数理学科における卒業研究セミナーの大きな特徴です.それを通じて諸君の数学・数理科学に対する理解は飛躍的に向上することでしょう.

上記は名古屋大学の理学部より。……なんともいえない香りである。

日記みなおし

今月に入って、過去の日記の字句を少しずつ修正している。

先月、日記をまとまって読み返す機会があって、はじめから読み直してみた。ところが、意味不明な箇所があまりに多い。自分の文であるにも拘わらず「ひどいなぁ」と思い、同時に恥ずかしく思ったのである。特に1997年から1999年の間にひどいものが多かった。自分で考えて書いたのだから、何を書こうとしているのかはわかる。しかし日記の文章だけから、私がどのように考えを展開し、どのように結論に至ったのかを読みとるのは、実に困難であった。

そんなわけで、日記の字句修正に踏み切ったのである。そのために私の文章が読みにくかった原因を考えてみた。おそらく原因は次の四つであろう。

  1. 指示語の濫用
  2. 繰り返しの極端な不足
  3. 状況依存の文脈
  4. 語彙の不足

一つ目の指示語の濫用については、説明の必要もない。「あれ」だの「それ」だのを乱発していれば、どれが「それ」なのか、さっぱり分からなくなるのはあたりまえである。

二つ目が繰り返しの極端な不足。たとえば「Aは~のような変化を経て、Bになった。Bは……のような性格を持っている、したがってAからBへの変化はXと言える」という文章の場合、「Aは~のような変化を経て、Bになった。……のような性格を持っているから、変化はXといえる」のような文章にしてしまっていることが多かった。「……のような性格を持っている」のは何か、「変化」とは何の変化なのか、を説明していない。これではわかりにくい。

三つ目の状況依存の文脈は、端的に言ってしまえば、文章の背景に関しての説明が不足している、ということである。書いたときにみんなが知っていた話でも、あとから見たときに忘れ去っているということは、非常に多いのである。

四つ目が一番深刻だ。あることを表す適切な語彙を使えないがために、余計な数語を費やし、文章全体をややこしくしている。読んで知っている言葉は数多い。しかしながら、書くときに使うことのできる言葉があまりに少ない。だから、何かを適切に表現できず、文章全体をつまらない、平板なものにしてしまっている。この問題は、一朝一夕になんとかできるものではない。気に入った文章を書く人、たとえば前に述べた前嶋信次や小川環樹などであるが、彼らの文章を写してみることで、解決していきたいと思っている。

ことばの地域

この前、湯川ゼミの飲み会でしゃべっていたことだが、言葉にも地方地方で特徴がある。そして、日本の場合、それは普通、方言という。一般に東京の人間以外は、東京方言と、出身の地元の方言を操ることが出来る。したがって日本語を語るといっても、方言モードと東京方言モードの二つを使い分けていることになる。

つまり、ある地方の人が、東京の人間にあわせて話すときには東京方言モードに入るということだ。ところが、このモードが相互に影響を受けるであろうことは、疑いに難くない。東京方言モードで話していると思っていても、不思議に方言の言葉遣いが現れてしまうことがあるのだろう。特にイントネーションはすぐに東京方言のイントネーションになるが、語彙や言い回しとなるとそうもいかないらしい。

よく引き合いに出される、というより私が知っている例では、北海道の札幌周辺の言葉である。このあたりの言葉は、北に行けば行くほど口をすぼめるという本州の傾向とは異なり、イントネーションは東京方言とほとんど変わらない。したがって上述したようなことが非常に明白に出てくる。たとえば、「捨てる」のことを「投げる」「放る」という。これはイントネーションは東京とは変わらない。そして、やたらと過去の言い回しを使うということだ。たとえば、ファミレスで注文を確認するときに「……以上でよろしかったですか?」や、宅急便がインターホンを鳴らして「宅急便でした」などがある。「あぁ、そうですか」と言ってしまいそうなところであるが、これは一種の丁寧な表現だと言うことである。つまり過去時制を使うと丁寧さが増すという一般的な傾向に従っている。英語のCan you …とColud youの比較やフランス語の複合過去と単過去の使い方を比較すればよい。

というようなことを考えて、言語地理学に興味が湧いてきた。もっとも日本語くらいしかきちんと勉強しようとは思わないけれど。

慶應義塾のいま

ほとんど旧聞に近いものだが、慶應義塾長が安西氏にかわって、約一年半がたつ。あの塾長選は前鳥居体制に対する学部の総叛乱にも近かった。前体制はSFC=日吉を軸とした体制であったと目されたゆえに、学部の叛乱を招いた。すなわち三田の軽視といわれたのである。したがって、その後の人事刷新はすさまじいものがあった。慶應義塾の子会社慶應学術事業会の湯川社長(前常任理事)、妹尾副社長への任期途中での辞任強要、両氏のすすめた丸の内シティキャンパスでの夕学五十講後期開講講座の全中止(三菱地所の圧力かどうかは知らないが今年はきちんとやっている)、塾監局の人事刷新などである。

体制二年目に入って、週刊朝日が昨年報道したような、ほとんど「パージ」に近い前体制の有力者の粛清はほぼ落ち着いたように見える。たしかに前体制ではかなりの箱物が作られ、支出は増大した。それでも財務が決定的には破綻しなかったのは、むしろ小松前常任理事の手腕と言ってよいように思う。箱ものには二種類があった。新規のキャンパス設置とキャンパス内建築の建て替えである。前者については議論がわかれるが、後者については、批判はあたらない。慶應義塾の各キャンパスには慶應義塾百周年の1958年に建てられた建築が多い。当時の鉄筋コンクリート建築の寿命はおよそ50年といわれており、どのみち150周年前後の2008年には全キャンパスで大幅な立替が必要なのであるし、もともと三田を最大限に生かすためにはどこかに建物を建てる必要があったのである。法科大学院設置による新棟建設が結局は決定されたのだから、実は方針は継続中なのだ。むしろ、ある程度のブランドを持っている義塾にとっては、箱モノ以上に下手なソフトをつくる方が危うい。たとえば法科大学院と同時に戦略構想大学院が設置されるらしいが、いったいこれは何なのか。某法学部政治学科教授も首をひねり、「法律学科とバランスをとったのではないか」と漏らしていた。

今年9月の金子郁容幼稚舎長の任期満了をもって、名実共に鳥居体制は義塾から消滅した。安西政権は、フォーマットは終えた。これから何をするのか。法科大学院、戦略構想研究科、経営管理研究科の日吉から三田への移設がる。そして作ってしまった箱モノをどのように運営するのか。その答えはいまだ出ていない。明確な構想なくしては、評議員の不信が高まらざるを得ないのだ。そろそろ色が出てきて良いはずなのであるが……。

念のため。私は湯川ゼミに所属していますが、上記のような話を湯川さんがされたことは一度もありません。すべて私の憶測ですから、注意してください。

電柱電線論 第I

「東京の空は、狭い」とか何とか言って、建物や人の多さを論じ、さらに都市と農村という伝統的二項対立にもちこむような議論が、繰り返されています。この場合、第一段階の「東京の空は、狭い」のは、人と建物が多すぎるせいだというのは、あたかも共通認識であるかのような印象を受けます。

しかしながらその点についてもう一度考えてみましょう。「東京の空は、狭い」という言葉は、空を見上げたとき、その視界が狭い、ということを表しています。単に直立して前方を眺めたときに、視界が狭いのは確かに建物があるせいです。建物が集まって出来ているのが現在の都市の姿である以上、それは仕方がありません。このこと自体を美しくない、と感じるのならば、議論の余地はありません。しかし論じられているのは、「空の狭さ」です。ということは、建物が集まっている都市というあり方そのものには、譲歩の余地があるということです。では、はじめに戻りましょう。なぜ「空が狭い」のか。

トラさんを保護せよ

今日、上野動物園に行って来た。昨日がみどりの日で入園無料なのはわかっていたが、どうにもこうにも混雑しているだろうから、それ避けて今日にした。ろくに調べもしなかったが、ズーストック計画で上野動物園にはトラさんを集めることになっていると聞いていたので、なんとなくうじゃうじゃいるトラさんを見に出かけていったわけである。「トラの森」というのがちゃんと作ってあって檻ではないので見やすかった。目の前をのそのそ歩くトラさんは、体はやせっぽちだけど手足も顔も大きくていい感じ。でも2頭しかいなかったのだ。

あれ?集めているのではなかったのかな、と思って帰ってきて調べた。それが愕然とすることばかりで非常に驚いた。なにかトラというのは野生のものもうじゃうじゃいて、あちこちの動物園でも10頭単位でいるものだと勝手に思いこんでいたのだが、それが全然違っていた。というより、絶滅寸前。8亜種あるなかで、すでに3亜種が絶滅していて、残る5亜種も野生と動物園のトラさん全部併せて10,000頭にも満たないらしいのだ。

“トラさんを保護せよ” の続きを読む

神の子池

摩周湖を訪れたことがあるひとは多いと思うが、裏摩周展望台を訪れたことがある人はその何分の一にもならないのではないだろうか。裏摩周は摩周湖の西側に位置し、斜里と中標津を結ぶ線上にあり、釧路から川湯へと北上するメインルートからはずれるためであろう。さて、その裏摩周の方にさらにマイナーな場所がある。それが「神の子池」である。非常に透明で、しかも青みがかかっており、大変に神秘的なたたずまいの池である。近年、ごくまれにバスが入るなど少々知られるようになってきた(賽銭を放り投げる不届者がいるという)が、道道から砂利道の一車線の林道をかなり入らねばならないとあって、まだまだ名所ではない。

青く澄んだブルーが美しい池である。

さて、その「神の子池」が5月号の「ナショナル・ジオグラフィック日本版」p.17に紹介されている。右は昨年の秋、私が訪れたときの写真であるが、ナショナル・ジオグラフィックでの写真は非常に美麗なのでごらんいただきたい。

さて、この神の子池だが、有名な「ほっかいどガイド」をはじめとして、ここを紹介しているところでも摩周湖の伏流水によるものとしている。「神の子池」とはカムイトー(神の湖)と呼び、その伏流水によるから名付けられたのである。これは「ナショナル・ジオグラフィック」でも紹介されているが確かである。ところが、この神の子池は千葉大学の濱田浩美助教授による水質調査によると電解度は摩周湖の方が三倍にあたっており、同一の水であるとは考えにくいとのことである。

正確な中水文学的知識および湖沼学的知識は知っておいて損のないことであるが、この池の美しさはやはり「神の子」に値すると私は思う。

関連リンク

ほっかいどガイドは、現地を歩いた人による情報を集大成したネット上のもっとも伝統あるガイド(なんとJunet時代から)。北海道を旅する者にとって必携である。ナショナル・ジオグラフィックは、世界の地理を美しい写真と共にちょっと教養気味に紹介する雑誌。非営利のナショナル・ジオグラフィック協会が発行している。よく推理小説などで病院や弁護士事務所のきどった暇つぶし用の雑誌として紹介されている。1995年から日本経済新聞社と合弁で日本版を発行している。

National GeographicのSidebar Tabは一枚の世界中のどこかの写真と、ちょっとした記事が日替わりで掲載される。一休みにちょうどよい。

北へ――!

一年に三回くらいこの言葉を叫んでいる気がする。私はバイク旅を除いて、北海道の旅をそこそこ知っている方だと思う。宿泊ガイドといえば「とほ」と考えている。しかし住むことと旅することには雲泥の差がある。人類学者はフィールドワークにおいてそこに住んでも所詮は「余所者」の問題に悩むが、我々は旅することと住むことの差に惑う。凍る水道管、雪下ろしの苦労、雪解けに舞い上がる砂……そういったものは目にし、話を聞けば、おおむね理解することができる。しかしそうでない雰囲気のようなものは身に付きにくい。

北海道を愛し、旅するものは、おおよそそのさわやかさに焦がれる。しかし、そのことと北海道自体がいま現在持つほの暗さの落差。それはなかなかにつかみがたいものなのである。

九十八年の晩秋、私が「おおぞら十三号」の車中で聞いた六十代半ばの男性のライフ・ヒストリーは、悲しさの漂う、しかしそれでいて妙にあけっぴろげであきらめたかのような口調で語られた。彼は幾春別出身。幾春別は炭坑町であった。徐々に細っていく街の活気、そしてその後札幌に出た後の、定職についたりつかなかったりの生活と冬の描写は心を打つものであった。詳細を語ることはできないが、決して彼の語りの世界の背景が遠く過ぎ去ってしまったわけではない。観光のまなざしにはなかなか入ってこない部分もあるのだ。いまだに北海道は生活保護受給率は日本一であり、さまざまな社会面の報道にも心を痛めるものが印象として多いように思われる。北海道では「左」が強い。それは故のないことではないのである。

しかし、そのほの暗さがあるからこそ、美しい大地に夢をかけることができる。いやすことができ、迎え入れるエスプリを持ちうる。五月六月、札幌はリラの花咲く一年でもっとも美しい季節にはいる。ワールドカップでしばらくは喧しいであろう。しかし美しい季節であることにかわりはない。

旧国名

某所で最近旧国名が通じなくなりつつあるということを聞いた。いまでも地名などで一般的な名前(たとえばどの国にでもある一宮など)は旧国名を重ねて区別しているし、自動車によく乗る人なら峠の名前や街道の名前に多く使われているので、一般的に旧国名は広く認識が共有されているのだと思っていたが、そうでもないらしいのだ。旧国名は便利なもので主要な国なら一字で意味を示せる(たとえば「信」といえば「信濃国」であるし「上」といえば「上野国」である。漢風に「州」をつけて「信州」「上州」とも言える)。この一字略が特に通じないという。

私はこの議論は根拠もなかったのであやしいと思うが、実際のところはどうなのだろう。上信国境や上越国境、三遠信国境、西武、あるいは関東「甲信越」などの名前が残っているのだから、みんなわかっているのだろうと思うのだが……。もし上に挙げた固有名詞を単に地名としてバラバラに覚えているのなら著しい効率の悪さである。県名を学ぶ時に同時におおまかな旧国境と旧国名も学んだほうがいいのかもしれない。

別の話になるが、陸奥国、出羽国および蝦夷島がそれぞれ東山道諸国(陸奥、陸中、陸前、岩代、磐城、羽前、羽後)および北海道諸国(天塩、北見、千島、根室、釧路、十勝、日高、石狩、胆振、後志、渡島)に分かたれたのは明治二年のことであり、「釧」「勝」などのほかは定まった一字称はない。それが徐々に「狩勝」「塩狩」「常磐」などのように旧国名が廃止された後に広まってゆく過程はどのようになっているのか。興味のある問題である。

そして現在でも微妙にゆがみをもちつつ、旧国名を用いる傾向は変わっていない。たとえば「関越」などは「関東」と「越」であって妙といえば妙ないいまわしであるが、旧国名を用いたほうがしっくりとくるのである。高速道路の名称をみると、あえて避けたかのように都道府県名は使われず、地方名(東北自動車道)や旧国名(常磐自動車道や上信越自動車道)あるいは都市名(東名高速道路や館山自動車道)である。これはやはり一世紀たったいまでもフランス流の県編成はしっくりとこないということなのだろうか。

現在進みつつある「平成の大合併」によって一つの市町村の面積は相当に大きくなり、郡相当となる。であるならば、都道府県+市町村という枠組みよりも道+郡という令制下の編成の方が結局合理的であったと言えるかもしれない。

「永遠の」日常が終わる日

それは常に続いていくと想像されていた日々。穏やかにそしてささやかな幸せが周囲を流れていた日々。だが、そんな永遠のまどろみを支配していた秩序は、堅牢な石造りの光塔ではなく、現実に左右される砂上の楼閣に過ぎなかった。

中世的永遠は、そこに暮らしていた人々にとっては真実だった。歴史学的には、「まどろみ」のように見えていた日々もまた非常にダイナミックで動態的な世界であったことは、近年よく指摘されることである。しかしどこまでも続いてゆく日常の感覚は、人々にとって真実であったのではないだろうか。

やがて永遠を夢想していることすら許されない日々が訪れる。そこに住む人々の目前においても、昨日までの日々を永遠と思うことが許されないほど、世界が躍動感に満ち溢れた時が来る。そのような時、人々は無力さを痛感したかもしれない。否、確実に痛感しただろう。しかし無力さの自覚は、強い自己を作る。そして、そう。また、あの春が来る

未来の方向

興味深い話があったので、それについて。

母にWindowsの基本的な操作を教えていたところ、彼女から思いがけない質問を受けました。

「”Internet Explorer”でも、”Netscape Navigator”でも、エクスプローラでも、『進む』のアイコンは右矢印だし『戻る』は左矢印で共通しているのね。どうして?」

各ソフトが同一の操作に対して異なる記号を割り当てるのはユーザを混乱させる源となる、だからそれらは似たアイコンを使用することでユーザの利便を図っているのだ……と答えようとして、それでは母の質問に対して何ら答えになっていないことに気づく。彼女はなぜ「進む」が右矢印でなければならないのかなぜ右なのかを訊いているのです。

そんなことは考えたこともなかったので、これは飽くまで私の想像だが、と断った上で次のように説明しました。洋書を読む際には、読み手は左から右に文を読み進め、読み終えた古いページは左に流れていく。多くの西欧人は幼い頃からこうした本の読み方に慣れきっており、「次=右」「前=左」という繋がりを感覚的に受け入れやすい。だからなのではないだろうか、と。

その場はそれで納得してもらえましたが、しかし我ながらこの説明には不十分な点があります。ならば日本語や中国語版のソフトでは矢印の向きが逆転していなければおかしいのではないか、東亜圏のユーザにとって西欧の常識を押し付けられるのは好ましくないのではないか、とか。そもそも伝統的な紙の書物をめくる動作とコンピュータ画面の切り替えとの間にメタファが存立する余地はあるのか、とか。

西暦2001年10月中旬の日記 (Wind Report)

もしかしたらもう言い尽くされているのかもしれないが、文化的なコンテクストとして興味深い。つまり本のメタファがwebに使われているという主題以前に、歴史を自分の体に即してどのように表現するか、という問題が含まれているように思うからである。

まず人間の感覚として、進む、戻るを表現しようとすると、原理的には目の向いているほう、つまり前方が「進む」であり、後方が「戻る」であろう。ところが前方後方は二次元的に表現できない。無理やり表現するとしたら寸ずまりの上と下であろう。しかしそのようには表現されていない。

遡って考えてみると、カセットテープの巻き戻しなども←という記号で「戻る」が表現されていたことを思い出す。これはテープが左から右へと流れるから、それを示しただけともいえるだろう。しかし、ではなぜテープは左から右へと流れるのか、という疑問に戻ることになる。そこで書物まで遡ったのが上記の論である。

現状のwebの世界では時間軸は一般に水平に表現され、左から右へと流れてゆく。これはなぜなのか。上記では本をめくるときのページの流れてゆく方向ではないか、と推測されている。ページがどちらからどちらに進むかは、これは文字の流れる方向で決定される。ところが文字のレヴェルで考えると、まず時間軸が垂直方向か水平方向かという問題が最初に出てきてしまう。縦書き文化であれば上から下だろう(下から上というのは寡聞にして知らない)し、横書き文化だったら左から右か、右から左である。webの表現は巻物であるといわれる。巻物は本より古い歴史を持つ書物でるが。巻物上の紙に文書を記すとなると行がなければならない。では行はどちらに進むか、という議論になる。行の進み方になると、上記の方向が逆転して、縦書き文化であれば一般に右から左、横書き文化であれば上から下へと進むことになる。近代の科学技術文明は西欧起源だから、右から左の横書き文化がそのコンテキストにあるわけである。そんななかで生まれたwebであるから、巻物の西欧的に表現としての「上から下へ」がメタファとして用いられていても良かったのではないか。なのに、そうでない。

こうなるとやはり本の表現として「前後」を「左右」で表したのだと考えざるをえない。こうして本のメタファデザインは、ブラウザに実装され、webサイトはそれに合うようにデザインされる。段組をしたくなるのは、そのような文脈のせいではないだろうか。私たちはまだまだ本というものの呪縛をほどききれていないのだ。縦書きサイトやアラビア文字サイトの違和感、横スクロールを嫌う風潮といったものもこの文脈で理解できるのではないだろうか。CSSLevel 3が実装されても本の発想から脱却しない限り、縦書きのメリットが生かされないような気がしてならない。

あっというまに一カ月

例のテロ事件からあっという間に一カ月が過ぎた。8日に合衆国軍がアフガニスタンに対する攻撃を開始、日本もテロ対策国会が開かれている。しかしこの一時一時の間に日本の構造のゆがみが進んでいることは忘れられてしまったのではないだろうか。攻撃の一翼に加わることにうつつをぬかして二次補正など組んでいる場合ではないだろう。なすべきは構造改革である

それにもまして忘れられているのは、日本はムスリムから好意的にみられているという事実であり、中央アジア、イラン方面への最大の援助国であるという事実だ。国に閉じこもるのも、武力行使に心血を注ぐのも困ったものだ。人道援助にこそ日の丸の下、突き進むべき道がある。

ところで飛行機事故が二件もあった。それもヒューマンエラーが二件。ウクライナ軍の誤射にいたっては許しがたい。このような時期のため世論も沸騰しなかった。猛省を求める。一方で、飛行機の一機や二機落ちてもなんとも思わないように神経がいじられている気がする。なんということか。航空機事故というのは、きわめて確率の低い大事件であるということを忘れたくない。

駅カフェ

日経によると都営地下鉄が駅構内でのテナント事業拡大に乗り出すという。『日本経済新聞』2001年8月10日29面

とりあえず日比谷駅にカフェ(といってもアートコーヒー)ができるらしい。日経のイメージ図を見る限りでは、前に定期券発売所+案内所があったところである。案内所というのは何に使うのか実際なんだかよくわからなかったが、たしか昨年末までには閉鎖されていたと思う。駅でのテナント事業というとここ5年の間にJR東日本が本業以上に気合を入れてきた(本業のためといっているが)ため、最近では駅にコンビニやカフェ、本屋が付帯されるのは別に珍しい風景でもなんでもなくなっている。上野駅や東京駅のブックガーデンはそのあたりのチェーンの本屋より若干大きく便利である。

神保町にアートコーヒーがあったりするから不可能ではないのに、いままで何で地下鉄が大々的にテナント事業に手を出さなかったかよくわからなかった。今回まずカフェを作る日比谷をはじめ都営の都心部にはやたらとだだっぴろく殺風景なコンコースを持つ駅が多い。なぜ、それを使わないのか。

どうもそれは「国道の地下」という立地のためであったらしい。決定権は国が握っていて、出店を認めなかったらしい。それが1997年10月に規制緩和され、やっと本格的な実現に向かったということだ。東京都交通局はもちろん、国と都が出資する帝都高速度交通営団も役所同然である。ここまで時間がかかったのはそのためだろうか?

とにかく地上に出ないで使えるのは便利である。駅付帯施設はがんがん作ってほしい。都営は日比谷を実験に使うのが好きらしいが(駅丸ごとのラッピング広告をやっている:三共製薬)、ビックカメラも地下道でつながっていることだし、ソフマップも出来るし、使いでのある街になりそうだ。都営もやたらとアニメだのに入れ込んで変なことをよくやる(今度はコミケ向けバス共通カードの発売)がその革新性を維持していてほしい。

  • 日本航空が昨日大規模なコンピュータトラブルを起こした。これが載っていない(日本航空のお詫びの広告は載っている)日経ってなんなんだろうか。私の見落としか?
  • Nikkei Netは使いにくい。記事の所在が実に不明確。結局日経テレコン21を使えということなのか。
  • 私はオンラインのフリーソフトを山のように使っているが、2ヶ月ほどほったらかしにしていたので、ずいぶんいろいろバージョンアップしていた。目だったメジャーバージョンアップは特にはなかったが、ソフトを最新の状態に保っておくと安心ができる。ちなみにオンラインソフトを一括して管理できるVerilというソフトがある。単にソフト名とファイル、バージョン、作者のURIなどを自動的に記録して一覧するだけのものだが、使っているオンラインソフトが増えると作者のサイトを一巡するだけでも苦労する。一括管理が実に便利なので、これを使って一気にバージョンアップすることにしている。

東京珈琲史聞書

「クラナッハ」のマスターからの聞き書きである。

東京の自家焙煎珈琲の流れは概ね3つの流れに分かれるということができる。明治世代の伝説の大御所に井上誠氏と襟立博保氏という二人がいる。その共通の弟子が吉祥寺の「もか」のマスター標交紀氏だ。さらに戦後起こった自家焙煎の流れが、銀座「カフェ・ド・ランブル」の関口一郎氏、そして「バッハ」の田口護氏である。意外に世界は狭いらしい。

「ランブル」は銀座八丁目の珈琲しか出さないえらく凝ったカフェとして有名であるし、「バッハ」はいまや日本の頂点に立つ珈琲店であり、九州沖縄サミットの珈琲も「バッハ・ブレンド」であった。まだまだ日本のまともな珈琲はせいぜい第一世代、第二世代、第三世代といった若い世界なのである。

ところで面白い挿話がある。どうも「ランブル」オリジナルの焙煎のはじめは進駐軍の残していった生豆をなんとか焼こうというものだったという。この話、ヨーロッパへの珈琲の伝播が、オスマン朝がウィーン攻囲戦から撤退する際に大量投棄していった生豆に求められるという話と酷似している。四世紀からの時代の開きがあるが、歴史は繰り返すのか。それとも話が話を作ったか。

ちなみに先述の襟立氏の直弟子の女性が三田で珈琲店を半ば隠れて営んでいるという。探してみようか。三田にはまともな店がないから。あ。見つけた

以上のような話は季刊珈琲文化研究会会報「珈琲と文化」のバックナンバーを参照するとより詳しく知ることができる。また自家焙煎コーヒーに関しては立派な調査資料集「自家焙煎珈琲店巡り」がある(ただし評価は鵜呑みにしないこと)。

外務省人事

外務省の次官人事などが紛糾した。参議院選挙が終わり、これからが本当の政治の季節である。利害対立の調整こそが政治の役割である。

確かに官邸と外相の言い分が選挙前と比べて完全に入れ替わってるのはわかりにくい。それは私にも指摘できるのである。それを言い立てるだけでなく、なぜ逆転したのか。ジャーナリズムは、この点について外相や官邸のコメントをなぞるだけではなく、つっこんだ解説が要求される。それによってどのような利害が対立しているのかを市民は知ることができるのだ。あだやおろそかにしてはならない。

地平線上の帝国、地平の人民

パターンはいつもと同じ。ただ14時頃からなぜか持っていた宮本常一『忘れられた日本人』を読み始めてしまう。間違いなく英語をよむことに倦んでいたのだと思う。というわけで1冊読破。昭和20年代の日本にはまだまだ「近世」までの綿々とつながる「日本」が各地に残っていたのだということを実感した。しかし。人の勉強の邪魔をしたという点で、宮本は罪である。

「土佐源氏」をはじめとして本書に登場する人々はもちろん現在想定されるような「国民」ではない。彼らに想像できる空間の広がりは、自らが歩いていける範囲に過ぎない。すなわち大都市とは宇和島であり、松山はその一級上、東京とは雲の上の街である。これこそは帝国的空間観であり、人々は国民である以前に、ある地域民であり、それ以上の感覚では人にすぎない。

帝国には、境界線がない。いつしか辺境へと移り、ふしぎな混交した空間を通り過ぎ、やがてもう一つの帝国の辺境へと移り、さらなる帝国へと足を踏み入れる。帝国とは、属人的支配である。それゆえに土地に対する縛りがない。同時に、人に対する縛りもきわめて限定的であり、全ての人々に均一に支配が及ばないということにならざるを得ない。ここに帝国の超近代性があり、逆に限界も存する。

帝国主義とは、「主義」という名前を付けねば理解できぬ通り、帝国の採る政策ではなく、国民国家の採る政策である。果たして、帝国は復活するのか?  雲南の物言わぬ民は、大部分昆明までさえ出たことがないと言う。はたして彼らの脳裏に、郷党委員会以上のレヴェルで想起される政治的勢力はあるのだろうか? 県、省、中央。そのすさまじいまでのピラミッドは明らかに帝国であり、そして中国人民の考え方は、きわめて帝国人民的である。北京、上海、広州はある頂点なのである。中国はいまだ帝国であることを忘れてはならない。帝国は直接に民主化できない。

図書館には、人の出会いがある。建物の持つ凝集力はいったいなんなのだろう。この建物に、なぜこれほどの人が集まるのだろうか。書物の形作るネットワークと人が形作るネットワークの水紋が交わるところだった。

■□追悼・小渕前首相□■

小渕前首相死去の報が私に伝わったのは、時事通信1629時発の速報によってであった。小渕政権の凄まじい財政出動の下、日本経済は回復基調に向かった。これは功績である。しかし一方で巨額の負債を残しもした。小渕氏は、この負債を処理するという仕事も明確に意識しており、みずからその重責を担おうとしていたと思う。それが後世どのような評価をされようとも「やろうとした仕事」を半ばまでしかなしえなかったことは、無念であったに違いない。こんな風に思える点こそ、彼の「人柄」であったのかもしれない。

小渕氏が世を去った後、後継の政権がはたして小渕氏がしようとしたことのあとを着実に実行できる、すなわち「遺志を継ぐ」ことはできるのだろうか。そんな不安を残したまま「無念の宰相、静かに逝」った(日経15日社会面)。