情の薄さ

久方ぶりに私のことを「冷たい」という人がいた。的を射た議論である。ふつう私は優しさを装っているのだけれど、これは誰にでもその場限りひたすら優しい「優しさ」なのであって、人間関係の深いところを考慮したような……たとえば優しくしない「優しさ」……優しさは持ち合わせてはいない。ありがたいことにわりかし誰でもあえてつっこむようなことをしないでくれている。

悪いところはずばずばと指摘してこそ、おそらくは理想的な「市民社会」の言葉ある「優しさ」なのであるはずだが。日常レヴェルのきわめて簡単な優しさは、実際には優しくされるための無言の強要である、という議論があるが、そこから言えば私はこの悪い例に限りなく近い。まったくもって後悔の余地がありまくるのだが、私の信条は後悔しないことであるから、いかんともしがたい。

結局のところ、私は他人に非常に厳しい。厳しいといってもそれをどうにかしようとしての厳しさではなく、あきらめ、切り捨てた厳しさである。たとえば。友人と約束をしていて遅刻したとする。その遅刻がもとで信頼を失うようであれば、所詮その程度の関係と割り切る。相手にとっては遅刻してもいい程度の相手と思われているのが不快のなのであろうが、逆である。ハッキリ言って、そんな信頼関係は大嫌いだ。

経済学の言葉に、Cool Brain and Warm Heartという言葉がある。実行できればなんと素晴らしいことか!!

大川慶二郎氏を悼む

これを書いているのは22日の未明なのだが、競馬評論家の大川慶二郎氏の訃報が入ってきた。氏は終戦すぐから続いてきた競馬情報=厩舎情報というあまりにも経験的かつ内輪的な競馬評論に「レース展開」という概念を持ち込み、さらにそこからデータ分析による競馬予想という道筋をつけた人である。いわゆる「書斎派競馬ファン」の誕生の立て役者であった。

エンタテイメントとして「知」の楽しみを競馬に取り入れ、より体系化された競馬像を作り上げた。競馬というヨーロッパ流のギャンブルを本来のヨーロッパ型に回帰させ、ファンに「美」さえも感じさせる余裕を生みだした。

エンタテイメントにスタイリッシュな流れを作り出すこと。これはビジネスのチャンスであるとともに、「文化」なるものの側面を世間によく映し出すことになる。競馬場の「オヤヂ」もまたオヤヂなりの哲学を持っている、と考えている。こう考えさせたことに大川氏もまた大きく寄与している。

■□ご冥福をお祈りする□■

土曜の夜の教養空間

土曜日のNHK教育が面白い。だいたい9時半から「日本映像の20世紀」がはじまり、続いて「教育TODAY」、「街道をゆく」と続く。「日本映像の20世紀」では各県に残された映像から歴史を再構成し、地域に対するまなざしを深めてくれる。そして「街道をゆく」はなにより映像化されるのがよい。この時間帯、映像を本当に楽しめるし、学における映像の意味を考えることもできよう。見ないと損をする。

NHKの受信料を馬鹿にしてはいけない。正直言って他局など比べものにならない。おもしろさが段違いだ。

新書のリング

講談社現代新書、岩波新書、ちくま新書、講談社ブルーバックスの毎月の新刊をだいたい読んでいる。時に手当たり次第にトピックを求めて、年代や主題にかかわりなく、さまざまな新書を読みあさる。新書は「知」の入口、と私は考えているためだ。一般には、新書はビジネスマン相手と普通は捉えられているようだが、実は内容はかなり良質である(すくなくとも上に挙げたものは)。

普通、自分の専門は専門雑誌やほとんどの単行本に目を通す。しかし専門としない領域については、手が回らず何も知らないという状況に陥りやすい。そのような状況に陥らないために新書は有効だ。それぞれの学の行き着いた場所のオーソドックスなところを概説してくれるためである。

新書でもまじめなものなら、参考文献を示してくれる。一回参考文献にあがったからといって、その本が重要であるかどうかはわからない。しかし、新書は同じ分野で徐々に蓄積されてくる。その蓄積のなかで、共通して言及されている書物は概ね必読であることがわかるのだ。新書の乱読は読むべき本をみつけるためにも有効だ。

さて。もう一つ面白いことがある。たとえば。「まちづくりの実践」「侵略戦争」「スポーツとはなにか」この3冊。まったく関わりがなさそうであろう。ところが、いずれも日本に実体としての「地域」が欠けていることを認識できる。その認識のもと、まちづくりによって「地域」を創造すれば、商業スポーツではなく、地域に根ざした純粋な楽しみとしてのスポーツを形成できることがわかる。一方で、地域の欠如が、単純な皇国観を安易に受容できる素地を形作ったことを知ることができる。

「まちづくりの実践」「日本人はなぜ英語ができないのか?」「韓国は一個の<哲学>である」。この3冊、また関係なさそうだ。ところがこの3冊に共通して挙げられてい人物がある。井筒俊彦というイスラーム神秘主義を専門とした学者だ。3冊共通で挙げられたということは、この人の哲学が言語論、地域文化研究に重要な示唆を与えてくれることを知ることが出来る。

こういうことは突発的に出てくると驚くが、やがてこうした言論の網の目を自家薬籠中のものとすることが出来るだろう。新書はあくまで浅く広く読むことで、自分の頭の中に「知」のリングを形作り、言葉をより豊にさせてくれる。私は新書の乱読をお勧めしたい。

授業を変えれば大学は変わる。だから?

『授業を変えれば大学が変わる』という書物が出版された。「授業評価」の導入を通じて、大衆化した大学の授業のあり方を変えようとするものである。私はこの書物関連のプロジェクトに若干携わった。大学改革には様々な視座があるが、あえて授業評価を錦の御旗に持ってきた、という意図は理解できる。しかしながら「山を動かす」的な世論の操作をして、大学を変革しようという議論は、私には受け入れられるものではなかった。

どういうことかというと、授業評価システムを導入するだけで、大学は変わり世の中が変わる、というような単純な議論に問題を感じたのである。大学とは、そもそもこのような単純な論をする単純な意識、これを排除しする論理性を育むことが意図された場ではなかろうか。大学はさまざまな論の多様性と知の妥当性を求めている場所ではないのだろうか?

たとえば、大学が大衆化したということが前提とされている。しかし、大学卒という論理志向を持つ人々が社会にそれほど求められるのか? 現況では学というものを普通の人々はまったく無縁のものと考えている。つまり、学問の大衆化はまったく進展してない。その意味では、学問の社会への浸透をどのように図るか、という視点も必要となろう。学問の性質を完全に無視し、「大学の大衆化」という現状にあわせて大学をかえればよいという議論は粗雑に過ぎる。

そして、これから時間が過ぎれば過ぎるほど、「大衆」というものの存在自体も怪しくなるのではないか。そうなれば、大学は知の拠点として知的エリートを生み出す場に逆戻りするだろう。もっとも「知的エリート」が即「エリート」そのものと結びつけられるような戦前の状況とは異なるだろう。社会は「多様なエリート」を多様に存在させる時代へとうつりつつあるのだ。これからも大学が大衆化するとは思えない。

時代小説が面白い

ここ数年、時代小説が非常に面白くなってきている。いうまでもなくビジネスマン系「歴史情報小説」を脱し、ドラマトゥルギー、社会史研究・史料の精査、堅実な時代描写といった特徴を持つ小説群が姿を現してきたからである。たとえば、隆慶一郎であり、安部龍太郎である。

隆に関してはもう語ることはない。読んでいただけばよい。安部の作風もよく似ている。後南朝を描く『彷徨える帝』や戦国時代を通じて時代をつくった関白近衛前久に焦点をあてる『神々に告ぐ』など今までの英雄史観や即席教養逸話集からはまったくといってよいほど無視されてきた室町の朝廷や、隠された里の物言わぬ民を描いてきた。もちろん網野善彦につながる部分が大きい。

たとえば『神々に告ぐ』では、松永弾正の心理風景の変化をよく描いている。単なるシレモノではない。三好長慶を愛する律儀な吏僚として登場した弾正は、朝廷=伝統と信長=集権のあいだで揺れ動き、やがて変革者への道へと歩み出すのである。このように人物をきちんと描いていることは、私を驚かせるに充分であった。

家族国家と大学という場

6日の日経のX-NikkeiのWhat’s Newで東京国際大学の調査に基づいた面白い記事が出ていた。学生とその両親を対象に「友人」「親友」の数やどのようなつきあい方をしていたかの調査とのことである。ここで驚くのは、それぞれの世代で「友人」「親友」の量もつきあい方の質も明らかな差異を示していることである。友人の数では圧倒的に現在の学生の方が大きいが、親友では少なくなるということ。そして質の面でも父母の世代では全人格的に行動するとき一緒であったり、議論を戦わせたりする親友像があるのに対し、現在の学生は「共にいて疲れない」居心地の良さを親友のもっとも大きな特徴として挙げるという違いがある。

居心地の良さ、とはまさに家族の特質であったはずである。それが親友のもっとも重要な条件とされている。このことは、家族像の変遷が、友人像の変化にかかわってきていることを示しているのではないだろうか。親の世代と我々の世代の差異。それは、経済状態の違いに加え、情報端末・媒体の発展・多様化も挙げられる。歴史上、稀に見るスピードで、「人と人の関わり合い」が変化しているのであろう。それは「家族」にもまた、見られるものなのだ。

家族像が変容している。ところが一方で、日本という国家には伝統的に家族国家の感がある。日本の家族とは血以上に家を大切とする「氏」の家族であり、「姓」を何よりも重んじる韓国や中国とは違った特質をもつ。血という確固たる結合によって家が形成されるわけではない以上、家族像の変容は、日本のさまざまな局面に投影されている「家族」的なるものに影響を与える。たとえば日本の会社もまた「家族会社」の面があると考えられる。小熊氏の指摘するように新入社員とは会社に嫁ぐ「嫁」であり、就職活動とは嫁入りの「大事」なのであるかもしれない。家族が変容しているとはいえ、まだまだ「家」としての会社の意識は我々の深層に生き残っている。

大衆化した大学は20歳前後のある一時期を過ごすだけの場所ということがわかりきってしまった。そのような場所に「家」は感じにくいのだろう。その中で、旧来のアカデミズム的「ゼミナール」像は徐々に壊れていくのかもしれない。しかしこれに対されるのが全く学問に興味を持たない学生の巣では大学はたちゆかず、日本の社会もたちゆかないであろう。それ以上に、学問の生命力が失われて往くであろう。

だが、すでに会社が「家」ではないことも徐々に明らかになり始めた。構造が変わる日は、近い。

早慶戦を終えて、友を考える

去る30日が私の誕生日であった。ついに切り上げ三十路である(爆)。スカイメイトの有効期限まであと1年。猛烈に悔しい。

さておき早慶戦前後は妙に浮き立つもので、3日続けて入れ替わり立ち替わり我が家に人が来た。私はどうもなかなか眠くならない気があり、寝る前にむやみやたらと喋りたがる。もともとが人がいると楽しくて仕方がない寂しがり屋であるということもあるのだが。

世の中自分と全く同じ考え方をする人はなかなかいるものではない。私はわりと切り替えがきかない方で、酒の席でもしごくまっとうな受け答えをしてしまう。つまらない人間である。ふっとそれを気に病んだりすることが多い。この人たちはどうして楽しいんだろう?と考え出したらおしまい。相当にまずい。どうすれば世の中とうまくつきあっていけるのだろうか?

そして、また。友人と恋人の違いはどこにあるのか?

これはまともに考えれば近しさと性格の一致性に関する曲線の数ある交点のうち、ある時間においてもっとも高い場所にある、ということがわかる。したがって、全く別種の物であるとは言い切れないだろう。程度の違いである。もっとも恋人である人々が、むしろその関係を特殊であると信じ、先に述べた交点をより押し上げてゆくことは正しいことであり、他人がとやかく言うべき筋合いのものでもないだろう(笑)

むしろ。擬似的に妹のように、あるいは弟のように、姉のように、兄のように思う方が、友人とはより別種の観念であるように感じる。この点、知識が少なすぎるので、非常に嘘臭いが。

その家でのどんちゃん騒ぎの際に話していたことなのだが、血液型、というのがいまもって強い信仰力を持っている。性格であるとか、相性であるとか。私は、これが嫌いである。なぜなら人間性や性格の大部分を先天的決定にゆだねてしまう、しかもその類型パターンが極めて少ないからである。先天的決定の類型化を「人」そのものに当てはめると、遺伝的「選別」の発想が生まれる。その危険が怖い。

そもそも血液型ブームの仕掛け人は戦争前後に活躍した古畑種基である。彼は一方で優生学的発想を持っていた人である。優等民族たる日本人が劣等民族たる朝鮮人と同化するなどとんでもない、という思想をもち、七三一部隊の石井中将の師と学を同じくした人でもある。

現今の社会は優生学的発想を許さないようにも見えるが、世の中少し転べばどう動くかはわからない。なるべく環境とその影響が人を形成し、思想を形成してゆくと考えたい。

よく「それは考えるというものではない」という発言がされるが、感覚や感情、直感にも必ず背景がある。史家はそれをみつめねばならない。